「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

心の距離

f:id:tureture30:20190709083212j:image

 

「冷たいのと温かいのがあります」

「じゃあ、冷たいほうで、」

「じゃあ、私は温かいほうで、」


些細な連れ違い。

それすらも大きく感じてしまうほど、

心の距離は離れてしまう。


わからないくらいの速度で、

ゆっくりと離れていく。


人の心は難しい。


はやぶさ」が地球を飛び立ってから、

何年もかけて宇宙をさまよい続ける。


その旅路を想起させる。


真っ暗闇をただただ突き進む。

そうやって二人がそれぞれ進んでいたら、

どうやったって距離は離れてしまうだろう。


二人の距離を確認するためには、

どうしたって言葉が必要、


「居心地が良ければ言葉なんていらない」

そんなものは幻想に過ぎない。


一度は交わったはずの二人の気持ち、


言葉を交わすこともなく、

無為に時を刻んだら、

心の距離は離れる一方、


人は個体が違えば別の生き物、

どんなに分かり合えたつもりになったところで、

そういうものなのだ。


言葉の届かない距離まで離れてしまったら、

あとは奇跡を待つしかない。


真っ暗闇を突き進む二人が、

再び近づくという奇跡を、


「自分の道を進めばいい」


信じる道をただ真っ直ぐに、

進めばいい。


その先に交わるものがあるかどうかはわからないけれど、

辺りは真っ暗だから心にある羅針盤に従うしかない。


宇宙は広くて真っ暗だから、

ただまっすぐに進んでいれば、

自分の道を進んでいれば、


火照った体と同じように、

心も時間が冷ましてくれるはず、


「心がつながっている」なんて、

ただの勘違いだったんだよって、

きっと教えてくれるはず、


だから、

どんなに辛くたって、

後ろ髪を引かれたって、

自分の道を進むしかない。


ただただまっすぐに、

脇目も振らずに、


そうして生きている中で、

たまたま交わったものにだけ興味を向ければいい。


それがきっと「縁」ってもの、


自分がそう思えば「運命の人」

だけれどもどんなにそう思っていても、

心の距離が離れてしまったら「関係のない人」


人って都合のいいもの、

そうやって生きないとあまりにも辛いから、

だから思い込みで気持ちを整理しようとする。


人って、

健気な生き物、

 

辛さや苦しみから、

自分を守ってあげようと、

いつだって必死に生きている。


はやぶさ」が地球に戻ってくるまでに、

誰とも交わらなかったとしても、

たとえ成果がなかったとしても、

その帰りを大勢が祝福してくれるだろう。

 

人の心を動かすのは真摯な姿勢と一途な気持ち、

 

交わらなくたっていい。

ただただ自分のやるべきことをやり続ける。


それが誰かの笑顔になる。

人生ってそういうものなのかな。

 

気になる彼女と連絡がついた。

だけれどもどこか儚げな様子、

 

このままどこかに消えてしまうんじゃないかなって、

そんな様子、

 

会う日までまだ時間がある。

 

気持ちをつなぎとめるためには、

どうしたらいいのかな。

 

とにかく会うまではわからない。

今はそう思うしかない。

 

相性の良い人

f:id:tureture30:20190708064929j:image

 

「人間なんてみんなどこかちょっとずつおかしい」

新海誠監督の映画『言の葉の庭』でのセリフ

 

そのおかしなところを見せ合って、

時には出っ張ったところをぶつけ合って、

それでも居心地がいいかどうか。

 

体験したことを自然と共有できるかどうか。

これまでに培った価値観を晒し合って、

それで違和感がないかどうか。


それが相性ってやつ、


個性をぶつけあうことがおもしろいこともあるし、

出っ張ったところが相手のへこんだところに、

パズルのピースのようにハマる心地よさもあるかもしれない。


それは直接触れ合わないとわからないこと、


表情の豊かさ、

声の調子、

笑顔の眩しさ、

その一つ一つが魅力となって心を揺さぶる。


画面越しのあの人は、

実在するかどうかもわからない。

もしかしたら幻かもしれない。


そんな儚さに思いを馳せるのも一興、


だけれども私は前に進みたいのだ。

関係を前に進めたいのだ。


愛する人に出会って、

一緒になって、

幸せな時を共有する。


それを望んでいる。

そんな月並な幸せを心から望んでいる。


「人間なんてみんなどこかおかしい」


だけれども望んでいることって、

みんなそんなに変わらない。


個性を尊重しすぎて、

人間という生き物の価値観が多様化しすぎて、

まるで違う生き物のようになってしまったから、


誰かを選んで、

誰かに選ばれて、

ちょっとしたことで別れてしまって、


同じことを望んでいるはずなのに、

どうしてこうなってしまったのだろう。


個で在りたがる一方で、

誰かと繋がりたがる。


自立を望む一方で、

過剰な自意識に支配される。


人は強く儚いもの、


私たちが求めているものって、

自分らしさを認めてもらうことなのかな。


だから、

「あなたのあなたらしいところが好き」

そう言ってもらえたら一番嬉しいのかもしれない。


おかしなところを愛おしく思える相手、

そして愛おしく思ってくれる相手、

 

そんな人が「相性の良い人」なのかな。

 

自分の価値を信じるということ

f:id:tureture30:20190707082440j:image

 

私は恋愛が苦手だ。

熱しにくいし行動を起こす勇気がない。


おまけに何の巡り合せか、

奇跡的にすれ違うことばかり、


そういう経験を積み重ねてしまうと、

「恋愛」という一側面に引っ張られて、

自分のすべてを信じられなくなってしまう。


「私の持っているもの」


コミュ力は高めで話題は豊富、

仕事でもそこそこの才気を発揮しているつもりだし、

交友関係は広い。

困っているときに助けてくれる仲間もいる。


新しいところに飛び込むことに面白みを感じられるし、

日々学びを怠らない。


健康のために体を鍛えていて、

脱いでも恥ずかしくない程度には仕上がっている。


人の機微に敏感で、

それを思いやった行動ができる。


動物や子供と心を通わせることができる純粋さと、

論理的に物事を判断する強かさを併せ持つ、


「誠実」という軸があり、

そこから大きく逸れた行動は自制している。


なんとまぁ、

これだけの魅力がある。


私って悪くない。


「超人」

ルサンチマンからの自己超克


こんなことばかりを書いていると、

ニーチェのように発狂してしまいそうだけれども、

「自分で自分を認めてあげる」って、

とても大事なこと、


私って意外とモテ体質、

普通に生きているだけで、

年に一人や二人からは言い寄られる。


だけれども受け止めるこちら側の問題、

いつだって気持ちを温めている間にうまくいかなくなる。


だから私はそう悪くはない。

「恋愛」だってちゃんとできる。

女性からだって選ばれている。


そう自分に言い聞かせて、

不安を遠ざける。


「自分は誰よりも自分をわかっている」


自分のことを好きになれないと、

自分を好きになってくれた人のことを信じられない。


だから、

自分が嫌いになるようなことはしないで、

それでもうまく行かなかったら仕方がない。


「自分で自分の価値を信じること」


それが始まりで、

それが終わりでもある。

 

 

気になる彼女と連絡が取れない。


忙しいのはわかるけれど、

不安は募る。


「好き」の気持ちって、

なんでこう、

いつもうまくいかないのだろう。

 

「性」を飛び越えて

f:id:tureture30:20190705222227j:image

 

少し「婚活」にお熱なものだから、

色々な女性と話をする機会を得ている。


その中で感じたこと、


ある人は、

「私は男の人が嫌い。

だけれども家族の大切さを感じた出来事があって、

だから婚活を始めた」


そう言っていた。

 

仕事は充実していて、

生活には何不自由ないみたい。

 

「家族の大切さ」

 

ごく当たり前に感じる言葉だけれども、

他人ならば男と女でないと「家族」にはなれない。

そういう認識があるから出た言葉、

 

何も嫌いな生き物と一緒になる必要なんてないだろうに、


合コンに参加していた、

ある友達同士の女性二人は、

その帰り道に手をつなぎながら歩いていた。


仲が良くてしょっちゅう二人で遊んで、

旅行にもよく行くらしい。


二人で談笑する姿は、

とても満たされているように見えた。


「二人で結婚するのが一番いいんじゃない?」


そう思うほどに、

二人の世界ができあがっていた。


だけれども、

彼女たちは「男」と結婚をしたいらしい。

二人でいることに満たされている様子なのに、


なんだか「女性」というものに多く触れてみて、

我々は「性」というものにこだわりすぎているように思った。


もちろん私も含めて、


今が満たされているのに、

無理して異性を求めすぎている。


「お年頃だから」

「子供のことがあるから」


そうやって、

好きになろうと努力しながら、

好きでもない相手と一緒になろうとして、

 

「結婚することが目的」

そうなっては本末転倒なんじゃないかな。


「男」と「女」は別の生き物だから、

考え方も違えば、体の仕組みも違う。

共感できないことは多いし、

性差からどうにもならないこともある。

 

理性的に考えれば同性よりも好きになれる確率など低いはず、


男女の「好き」は、

本能からくるもの、


種を保存するために、

脳は性行為に快楽を付与するらしい。


それと同じように、

脳が異性に対して「好き」と指令を出す。


「恋」の正体って、

そういうものなのかもしれない。


だけれども、

違う生き物同士でも、

どうしようもなく気が合う相手はいるもの、


一緒にいて心地良い。

それこそ「性」を飛び越えて、

いっしょに時を重ねたいと思う人、


そういう相手に巡り合うために、

いろいろな人と出会いを重ねるのだろう。


なにも「婚活」が目的ではない。


同性でも異性でも関係なく、

いっしょに「時」を重ねたい人が周りにたくさんいる。


そういう人生って素敵なもの、


わざわざ「性」という制約をつけて、

人生の目的に「結婚」というものを掲げすぎるから、

だからどこにもいけなくなって苦しくなる。


「充実した人生を過ごすため」


そう思うならば、

「結婚」よりも優先すべきことってたくさんある。


「社会から求められるミッションをこれまで私はこなしてきた。

だから「結婚」というミッションだってこなせるはず、

こなせない自分を許せない。」


そんなに息を巻いたって、

「結婚」はゴールではないよ。

その先のことはどう考えているのかな。


心の底から時を重ねたいと思う相手ならば、

社会の制度に縛られる必要はなくて、

誰に気兼ねすることもなく、

時を重ねればいいんじゃないかな。


なんだかそう思った。


断っておくけれど、

私は「女好きの男」

 

それに男女の結婚に対する憧れが強い。

だから婚活をしている。

 

少なくとも今のところは、


それも「女性」というものを覆う、

神秘のベールが剥がれたときに、

私の心がどう変わるかはわからないけれど、


少なくとも今のところは、

「社会の基準」というものに沿って、

本能が働いているみたい。


ただそれだけのこと、

なんだか「性」に対する見方が冷めてきた。


今はただ、

思いを寄せる人と過ごす、

その日に思いを馳せる。


まだまだ先、

早く会いたい。

 

これも脳からの指令に過ぎないのかな。

「性」を飛び越えているかどうかはわからない。

それでも別にいいか。

 

たまらなく会いたいのだから、

 

 

愛の言葉

f:id:tureture30:20190705065328j:image

 

「かたち」は色々あるけれど、

「好き」の気持ちがこもっていれば、

それは例外なく愛の言葉、


「忙しいよね。体は大丈夫?」から、

「私と一緒にいると不幸になってしまうよ」まで、


愛の「かたち」というものは色々ある。


「かたち」の捉え方が違うから、

誤解を招いてすれ違うこともある。


そんな時に、

まっすぐな気持ちを伝えることができるか。


それが問われることになる。


誰にでもわかる愛の言葉、

「愛している」だとか「好き」って言葉、


それを簡単に使ってしまうと、

その価値は下がってしまうけれど、

いざという時に使えないと、

後悔は先に立たない結果となる。


愛する人に対しては、

普段から「愛の気持ち」を込めて接すること、


そうすれば、

いざというときのまっすぐな愛の言葉を、

相手はすんなりと受け入れてくれるはず、


人は個体が変われば別の生き物かもしれないけれど、

わかり合えないことなんてない。


みんなが誰かと愛し合いたくて、

心を通わせたくて、

優しくなりたくて、


そんな気持ちに飢えているのだから、


傷つくことが怖いから、

その気持ちを素直に表現できない。


「あなたの愛を受け止める準備はできているよ」


その姿勢を示してあげれば、

相手だって惜しみなく愛を表現してくれるはず、


人って、

みんな不器用で、

傷つくことを過剰に恐れて、

その結果として誰かを傷つけてしまう。


恐れることなく、

愛の言葉を伝え合う。


そんな安心感を共有できたならば、

うまくいかないはずがない。


「安心して愛すること」

それが「安心して愛されること」


自分の気持ちを差し出しもしないで、

相手の気持ちばかり受け取りたがる。


そんな虫のいい話が通用するのは、

超絶イケメンか絶世の美女だけなのだ。

適温

f:id:tureture30:20190704065420j:image

 

「良いものを作りたい」

そこを重視する人はエンジニア気質、


「あるべきものがあるべきところに収まっている」

そこを重視する人はマネージャー基質、


基本的には両立を目指すのだけれども、

切羽詰まってくるとどちらかに偏る。


私は明らかに後者、

「うまく回っている」事が大事なのだ。

できれば自分がコントロールできる範囲で、


余裕があれば120を目指すけれども、

めんどくさくなるとすぐに妥協する。

100なり80なりで満足してしまう。


意識して変えようと努力した時期もあったけれども、

やはり「気質」というべきなのか。

なかなか変えることは難しい。


うまく回っていればいい。

波風立てずに、

みんながそこそこ満足していればいいのだ。


器用な人間ならば、

プライベートだってそうやって回せるのだろうけれど、


私は不器用、

とても不器用、


だから女性に対しても、

120で向き合うことができない。

そして「120で向き合っていますよ」というフリもできない。


そうやってうまくいかなくなる。


多くの人って、

人を好きになると、

きっと120まで気持ちが急上昇するのだろう。


そうでなくても、

私みたいに1ずつ積み上げるのではなく、

5ずつくらいは積み上げていくのだろう。


手練れならば積み上がってもいない気持ちを、

あたかも積み上がっているかのように見せることもできる。

それの是非は別として、


1ずつ積み上げて100を超えたあたりになって、

アプローチする頃には相手に気持ちは別の方向を向いている。


いつだってそう。

そうやってうまくいかないのだ。


気持ちの上がり方が人とは違う。

きっと変わりものなのだろう。


だけれども今回は、

珍しく火が灯った。


初対面からまさかの100超え、

そこからも徐々に気持ちは高まっている。


会うまでに少し日が空いてしまう。

忙しいのかあまり連絡も取れない。


それだけが気がかり、


私は気持ちを温めるタイプ、

だけれどもお相手はどうかわからない。


初対面での手応えは十分だった。


でも、私は保温していたけれど、

向こうはすっかり冷めきっている。

そんなこともあるかもしれない。


「おにぎり温めますか?」

「そのままで大丈夫です」


そう冷たく返されたとしても、

真心を伝えられるくらいには、

覚悟を決めていかないとな。


「温めなくていい」と言われたって、

一緒に過ごすことで自然と温まってしまうように、

私の心は適温にして置かないと、


ぬるすぎたら温まらないし、

熱すぎたら火傷してしまう。


適温って難しい。

 

人は自分が体験したことを信仰している

f:id:tureture30:20190703065533j:image

 

「あなたの信仰はなんですか?」


そう聞かれたときに、

多くの日本人は「ありません」と、

そう答えるだろう。


だけれども、

信じる度合いはともかくとして、

「信仰していること」は必ずある。


「自分が体験したこと」


人はそれを信じて生きている。


「このやり方で生きてきた」だとか、

「この人は信じられる」だとか、


もっと言えば、

「ここにお参りをしたらいいことがあったから、

 だからまたお参りしよう」だとか、


そうやって、

過去の経験を信仰して、

価値判断の基準をつくっている。


ドラマ『ラジエーションハウス』


幼馴染との幼い頃の「約束」を信じて、

富や名声を得られる立場にもかかわらず、

それを求めずに20数年間ひたすら「約束」に生きる主人公、


その「約束」が彼にとっての信仰、


「生きがい」が「信仰」の異名なのかもしれない。


だから自分の正しさを証明するために誰かを傷つけたり、

傷ついた経験を盾にして復讐に走ったり、

誰かの幸せを妬んだり、


それを「信仰」にしてしまうと、

いろんな物が壊れてしまって、

とんでもなく生きづらくなってしまう。


自分だけではなく周りの人も、


だけれども恐ろしいもので、

人は「生きがい」のない人生のほうが恐ろしいから、

それが間違っていると薄々気がついていても、

その「信仰」にすがってしまう。


自分自身の「軸」を持たなければならない。


何かに自分の人生を預けてしまえば、

どんなに大変に思えてもそれは楽なこと、


誰かの作った価値観を、

フレームワークとして使うのは構わない。

だけれどもシステムの構築は自分でやらないと、


楽して色々なものが手に入る時代、


「生き方」も同じなのかもしれない。

誰かの「生き方」は情報としてそこら中に転がっている。


だからって、

それがそのまま自分の「生き方」にはならない。

いや、できないのだ。


「人は自分の体験を信仰する」


だから体験していないことは、

心の底から信じられない。


人の「信仰」に酔いしれて、

自己の確立を疎かにしていたら、

気がついたら年だけ食ってしまっている。


一つでも多く経験を積むために、

体験を自分の命に刻むために、

より良く生きるために、

その価値判断の基準を明確にするために、


そうやってがむしゃらに生きればいい。


ひねくれていて、

疑ってばっかりで、

もうこれでいいでしょってところまでやったって、

簡単には納得できなくて、


「手のかかる子ほどかわいい」


そうして生きていれば、

自分のことを嫌いになることなんてないはず、


「生まれてきた理由」


その答えなんて、

死ぬ時までわからないのかもしれない。


いや、

死んでもわからないのかもしれない。


だから「今」この瞬間に、

心の底から湧き上がる喜びで笑顔になれること、


それ以上に大事なことなんて、

この世にあるのかな。