「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

砂の女

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安部公房砂の女

ふとしたきっかけで手にとってみたけれど、

とても示唆に富んだ面白い作品だった。


男には妻がいる。

だけれども関係は冷え切っている。


教師という仕事もある。

だけれども人間関係は希薄だ。


日常に飽き飽きしていて、

唯一の楽しみは趣味の昆虫採集、


その唯一の趣味に興じるために、

誰にも行き場を伝えずに出かけた先で、

思わぬ事件に巻き込まれる。


新種の昆虫を求めてたどり着いた先で、

砂にまみれた辺境地に幽閉されることになる。


そこであてがわれた同居人は、

やつれながらも「女」を感じさせる妙齢の女性、

自由を諦めながらも生命力に溢れている。


砂嵐が吹きすさぶ土地、

逃げられないように外から監視されている。


村が砂に埋れないように、

雪かきならぬ砂かきが日常作業になっている。


周りを気にする必要もないので、

一糸まとわぬ姿でそれに取り組む女の姿に、

関係が冷え切った妻とは違う「女」を感じて、

罪悪感を感じながらも関係を持つようになる。


退屈に思われた辺境地での生活、


ところがもとの生活に嫌気が差していたものだから、

自然とそれを受け入れるようになる男、

次第に女と家族同然の生活をするようになる。


ささやかな生活の中に喜びを見出して、

逃げ出す術を見つけても、

そこに居着くようになる。


男の行政上の立場は、

「失踪」から「死亡」へと変わる。


そうして幕を閉じる物語、

結局、人というものは「晴耕雨読」に満たされる。

そんなテーマ、

 

ハンターxハンターのキメラアント編で最後に読まれた詩を思い出す。


冷え切った社会関係よりも、

ただ必要とされることで満たされる。


どんなに立場があっても居場所がない。

そういう人はたくさんいる。


人は必要とされないことを恐れるから、

立場を守ろうと必死になる。

その結果として冷え切った関係を手に入れるのだ。

なんとも皮肉なもの、


必要とされる役割がある。

必要としてくれる異性がいる。


黙々と体を動かして、

人としての営みをしながら時を重ねる。

むしろそれが自然なのかもしれない。


不自然なものに囲まれて、

不自然な人間関係をいくつも結んで、

その一つ一つに右往左往して、


人の幸せって、

もっとシンプルなのだろう。


必要とされる。

だから満たされる。


きっとそういうもの、


利害関係でも良い。

たまらなく必要とされる。

それも魅力的な異性から、

それも自分以外には救うことはできない。


とても支配的な関係、

相手を支配したい気持ち、

そういうものはわからないでもない。


きっとそれだけで、

満たされてしまうのだろうな。


優位に立たされているように思うだけで、

うまくコントロールされているだけなのだけれども、


男をうまくコントロールするには、

自尊心をくすぐってあげるだけでいい。

なんともお手軽なものだ。


貧しくても役割があって、

必要としてくれる人がいて、

しかもそれが魅力的な異性で、

なんだか羨ましく思う。


行き場のない人達に行き場を与える事業、

そういうのをビジネスモデルにしたら儲かるんじゃないかな。


立場や収入ではない。

家族って関係も移ろいやすいもの、


幸せって難しい。

 

コンクリートジャングルを巣にしている生き物

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人の生態は哺乳類よりも昆虫に近い。

そんな話を聞いたことがあったな。


いくら飲み込んでも決して満たされない、

そうやって次々に人を食らう満員電車、


「飽食」の象徴みたい。


「これ以上は入らないよ」って誰が見てもわかるのに、

1分1秒を争って駆り立てられるように躍起になる。

電車に食われることに、


何かに食われた心と体は、

どこへ行ってしまったのだろう。


「自然との調和」


それに取り組んでいますよって、

そうアピールしているみたいに、

申し訳ない程度に生えた木々、


それを取り囲むように、

見渡す限りの人工物、


その人工物に至る道筋は、

まるでレールが敷かれているみたいだ。

 

「そこ以外は歩いてはいけませんよ」って、

どこかにそんな看板でも立っているのかな。

 

きれいに列を作って、

レールの上を歩きながら、

人工物に吸い込まれていく人たち、


「これが生きるってこと」


生活をするために、

ある意味では生活を捨てているのかな。

 

考える気力すら失って、

足が勝手に動いている。

ただただお決まりの時間にお決まりのルートを辿って、

お決まりの作業をして、

だいたいお決まりの時間になるとそれを切り上げて、

またお決まりのルートを辿って帰る。

 

一日のほとんどはお決まりなのだ。


不自然なものに囲まれることが当たり前になっているから、

不自然な心の変化にも気が付かないのかな。

そうやって手遅れになってしまう。


いくら周りのことで忙しいからって、

自分のことは自分で面倒見てあげないと、


周りは面倒見てくれないよ。


同じように電車に詰め込まれて、

同じように列を作って、

同じ人工物で長い時間を共有しても、

多くの人とは心の距離が縮まることはない。


「誰かと繋がりたい」

そういう欲求はみんなが持っているはずなのにね。


リアルヒューマン、


文字や写真だけではなくて、

直接のぬくもり、


そういうものに対する欲求はきっと、

どこまで行っても人生から切り離すことはできない。


毎日これだけ多くの人と触れ合って生きているのに、

関わるのはほんの少しだけ、

なんとも奇妙な生態を持つ生き物だ。


世の中が便利になるほどに、

どこかの機能が麻痺してしまうから、

欲求がいびつに歪んでしまう。


「人とのふれあい」


そういうものにもっと正直に生きられたらなぁ。

傷つくことを恐れずに信じることができたらなぁ。


私はもはや手遅れかもしれないけれども、

そういう未来になればいいと思う。

 

今日はお決まりから、

少しだけ外れてみることにするかな。

 

私のおっぱい論 〜大きい方がいいの?〜

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最近少し騒がしくなっているけれど、

永遠のテーマと言っても良いのかもしれない。

 

大きい方がいいのか。

小さい方がいいのか。

そう。女性の胸についてだ。

 

「良い悪い」ではないな。

それでは男の主観が過ぎる。


先に宣言しておくが、

私は大きい胸に惹かれる。

 

もちろんそれが全てではないけれど、

単純に大きいと目を奪われてしまう。

それが惹かれている証拠、


理由は特に思いつかないけれども、

本能的なものなのだろう。


「ただの脂肪の塊なのにね」


そう言われたって、

惹かれるものは惹かれるのだから仕方がない。

話していても自然と顔から目線が下に行ってしまうことがある。

そういうのって気が付かれているらしい。


そしてそのたびに「男って…」

世の女性はそう思っているのだろう。


だけれども仕方のないこと、


男と女は違うから惹かれ合う。

セックスシンボルを目印にして、

「確かに異性だ」って、

わかりやすいものに引き寄せられる。

 

男は特にそうなのだろう。

目に見えるものだけが真実とは限らないのにね。

視覚を頼りにするものだから、

簡単に騙される。


そして人は「好奇心」という魔力に心を奪われる。

普段は露わにしないその先に待ち受けているもの、

そういうものに惹かれるのだ。


みんな服なんて着ない裸で、

それが当たり前の世界だったら、

きっと必要以上に意識することなんてないはず、


だけれども我らの文明には羞恥心がある。

それが性差に対する自意識を助長しているのだろう。


長い髪だったり、

血管の浮き出たゴツゴツした手だったり、

くびれたウエストやたくましい筋肉、

あそこの大きさを気にする女性だっているわけでしょ。


性差というもの、

挙げればキリがない。


「自分にないものを持っている」


神秘的だ。

だから惹かれる。

そういう理屈、

 

もちろんそれはヘテロセクシャルの視点だと断っておく。


だけれども気をつけなければならない。

「大きすぎる」といけないのだ。


思いも寄らない大きさに直面した時に、

図らずも人は萎縮してしまう。


そしてこう考える。


「自分の手に余るな」


「好奇心」よりも「現実感」が上回ってしまうのだ。

そうなると正当化するための理由をつける。


「小さい方に惹かれる」

そういう派閥が生まれる。


人は経験を信仰する生き物だから、

一度そう思ってしまうとなかなか拭えない。


生まれた時から「小さい方に惹かれる」

そんな男はいないんじゃないかな。

何かしらの経験を経てそうなるのだ。


自らのコンプレックスに起因するものだったり、

何かのきっかけで目覚めたり、


きっとそういうもの、


タイトルに話を戻そう。


「異性を惹きつける」

そういう意味では間違いなく大きい方が有利なのだろう。


だけれどもそれを求めていない女性だっている。


同性の敵は増えるかもしれないし、

変な被害に遭うリスクだって高まるのかもしれない。


自分の武器だと理解して、

理想の異性を手に入れるために使う人もいるけれど、

そういう人のイメージが一般化して、

望まない好奇の目で見られることだってある。

 

言わば「諸刃の剣」なのだ。

単純に大きければ楽に生きているわけじゃないでしょ。


結局は個性でしかないのかもしれない。


男は馬鹿だとか、

女はずるいだとか、


そういうのって、

主張する側の主観でしかない。


経験をもとに価値観が作られて、

それが行きすぎるとなんだって攻撃材料になる。


「巨乳は奇形」


あそこが小さいからって、

大きい同級生を「デカチン」っていじる小学生みたい。


大きくたってそれを正しく使う機会がないならば、

自分をすり減らしてしまうだけ、

 

小さくたって、

コンプレックスなのって悩んでいたって、

正しく使う機会がある方がよほどいい。

 

異性を囲い込むための武器ではなくて、

生理的な機能や命を育むため、

そして「愛情表現」という形でね。


その心も体も、

愛する一人から求めてもらえるならば、

それでいいんじゃないかな。


大きいとか小さいとか、

そんなことだけで選んで選ばれたって、

きっとうまくはいかないでしょ。


異性を使い捨てる。

男は女を性欲の捌け口に、

女は男を不安解消の道具に、

そうやって傷つけ合うことが病理、

 

「ヤらせてやったのに」

 

そう言っていた女性がいたけれども、

その言葉自体が相手を都合よく使おうとした証拠じゃないのかな。


誠実ってなんだろう?


そんなことを書いていたって、

私も女性をそういう目で見ているのだけれど、


「大きい胸に惹かれる」


草食の権化みたいな私だってそう思う。

 

だけれども思うことは止められない。

需要が多ければ商品化される。

そういうもの、


人だって動物、

そんなにいきり立たないでさ。

 

BLだって地位を確立したから、

web広告で目にするし、

散々流れているけれど、

生理用品のCMだって男からしたら、

「粛々とやってよ」ってそう思う。

 

男も女もどっちもどっち、

少しくらいは多目に見てよ。

 

ある意味では成長なのかな

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「最近、顔色が良くなりましたね」

ランチを共にしていた後輩くんにふと言われた一言、


「婚活をお休みしているからね」

私はそう答えた。


出し切ってしまったのか。

最近はあまり言葉が出てこない。


何かに取り憑かれたように文章で吐き出していた時期もあった。

言葉を紡ぐことに飽きてしまったのかな。


理想の相手と一緒になることを目指していたけれど、

どうやらそのことに私があまり執着しなくなったみたい。


それもある意味では成長なのかな。


欲求だとかそういうものを垂れ流しにして、

それが敵わないからっていちいちイライラして、

そんな状況よりかは幾分かマシ、


だけれども気力が湧いてこない。


やらなくてはならないことを、

やらなくてはならないからやり続ける。

生活のためにやり続ける。


なんだかそんな繰り返し、

それを続けられているだけでも上出来なのかな。


それ以上に手を伸ばして、

また体調を崩してしまったら本末転倒、


私の心は誰かと一緒に前に進むことを、

求めてはいないのかもしれないな。


いつだってダメになる。

いや、自分でダメにしている。


前に進まない理由を作って、

純情を装って、


いい加減いい年だよ。

何をしているんだか。


ある意味では成長していても、

ある意味では全く成長していない。

 

人生ってそういう繰り返しなのかな。

 

餌に釣られて前に進んでみる。

だけれども餌は餌だから、

手の届きそうなところでフッと消えてしまう。

 

人参ぶら下げられた馬みたいに、

そうやって走り回らされる。

何か大きなものの意思によって、

 

賢くならないといけない。

賢くなるって走るのを辞めるってことなのか。

 

それはわからないけれど、

顔色が良くなってきたようだから、

今はもう少しお休みしていればいいか。

 

もはや手遅れ、

今更焦ったところで変わらないのだ。

 

私にしかできないことをしたい

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「死」があるから「生」を強く実感できる。

使い古されたテーマだけれども、

人生における永遠のテーマなのだろう。


命が永遠に続くならば、

生きるための努力などする必要がない。


ずっと続くのだから、

何も焦る必要はない。

好きなことだけをしていればいい。


だけれども人生には終わりがある。

だから「生きた証を残したい」

そうやって人は努力する。


理想の人生を掲げたり、

理想の相手を求めたり、

子孫に夢を託したり、


「生きた証」がほしいのだ。

この世に生まれてきた理由が、


だからそれぞれの道を歩んで、

「自分」というものを確立したがる。


他の誰でもない。

唯一無二の価値、

それを示すために努力する。


挫折を繰り返しながら、

方向転換を繰り返しながら、

その過程で掴み取った何かを大事にして、

「希望を失わないで」って、

そう自分に言い聞かせて、

 

「前に進んでいる実感」なんて、

そんな不確かな物を頼りにしながら、

死ぬ覚悟をしつつ必死に生きる。


人生に理由がほしいから、

自分の価値を信じたいから、

それを求めて必死に生きる。


そういうものなのかな。


それならば手っ取り早い。

難しいことを考える必要なんてないのだ。


周りの人の幸せのために行動すればいい。

そうすれば周りの感謝を通して、

自分の価値を信じてあげることができる。


傷ついて、

もう前に進めなくて、

自分の価値を信じられなくなったならば、

隣りにいる、目の前にいる、

その人のために行動してみればいい。


その結果、

図らずに感謝の連鎖が広がればいい。


「ありがとう」って、

「あなたの存在を認めますよ」ってこと、


そうやって、

利害関係なんて除いて、

互いが互いを認め合うことができれば、

きっと争いなんてなくなるのだろう。


「自分の価値を信じられない」


そう感じるならばまずは周りに認めてもらうこと、


「ありがとう」をたくさんあげて、

「ありがとう」をたくさんもらう。

そこからもう一度、自分を見つめ直してみる。


そうすればきっと、

いくら理想が高くたって、

少しは自分を認めてあげられるはず、


そうやって、

少しずつ「これでいいんだ」って、

自分を認めて生きていければいい。


きっとそこから、

この世界にいてもいい理由を見つけることができるのだから、

 

ドラマ『同期のサクラ』

「私にしかできないことをしたい」

 

それってそういうことなのかな。

 

人は自由なんて求めていない

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「人類が柵を作るようになった時に文明が生まれた」

ジャン・ジャック・ルソーの言葉、


これは誰の所有物でどこに権利がある。

そうやってルールを作ることで、

安心を得ると同時に不自由を手にする。


法に守られるためには、

法を守らなければならない。


本当に自由な世界に放り出されたら、

きっと途方に暮れてしまうだろう。


「だから人は自由なんて求めていない。

私だってそう。

限度はあるけれどもね」


村上春樹海辺のカフカ』でのワンシーン、


「やることがない」


忙しいよりも、

人は必要とされないことに耐えられない。


だから忙しいアピールをするし、

有能であるかのように見せたがる。


何かに縛られていたいのだ。


仕事だったり家庭だったり、

何かに身を委ねて、

何かに所属していることに安心する。

そこに役割があることに、


自由ってことは、

自分の存在意義を自分で見出す強さが必要、


誰から認められなくても、

何に所属していなくても、

自分で自分の価値を信じられる。


そういう強さが必要、


だから自由じゃなくてもいい。

否、自由過ぎなくてもいい。

 

年をとって経験を積み重ねると、

何でもかんでも自分でコントロールしようとして、

何かに身を委ねられなくなってくる。

 

どうしょうもないことはどうしようもないのだ。

そのことを受け入れることも強さ、

 

器を大きくするためには、

意見が合わない人をも味方にしていく強さが必要なのかな。

 

自由過ぎても大きく育たない。

不自由な中でも輝くことができる。

そういうものって必要、

 

両手が塞がっていたものだから、

今はいろいろなものを手放す時期なのかな。

 

そうすることで持ち方を変えて、

もう少したくさんのものを持てるようになる。

 

無理のできない体になってしまったから、

多くの物を抱えるには持ち方を工夫しないといけない。

 

まだまだやれる。

できないことは増えるけれど、

返ってやりたいことは明確になる。

 

そうやってみんな年をとっていくのかな。

 

夢中に生きるってどうするんだっけ?

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周りからいろいろなものが消えていく。

手放す時期に来たのかな。


熱を上げていた婚活を切り上げて、

かかえていた資格の試験を全て終えて、

体調が落ち着いてきたものだから、

ゆっくりと次のことを考えようと思った矢先、

今度は愛犬を失って、


バレーボールは終わり、

ラグビーも日本は敗退して、

野球の日本シリーズもあっけなく終わった。


しばらく読んでいた本も読み終えて、

通っていたジムは月末で退会する。


手放すものばかりで、

手に入るものはあまりない。

おまけに寂しさを紛らすための術もない。


そういう時期、


立ち止まる時だよって、

教えてくれているのかな。


それとも、

新しいことを始める時だよって、

そういうことなのかな。


忙しくなろうと思えばなれる。

そんな球はあるのだけれど、

どうにもあまり気乗りしない。


それに乗っかると、

なんだか搾取されているような気がしてしまうから、


昔はそんなことを考えもしないで、

夢中になれたものなのに、

歳をとってしまったのだな。


もうしばらくは心を落ち着けて、

目の前の責任だけを果たしていればいいのかな。


だけれどもそれだけでも、

なんだか責任は重くなる一方だ。

体力はどんどん落ちているのに、

かかえているものはどんどん増えていく。


いつまで片手間に責任を果たしていけるのかな。

両手まで塞がってしまったらきっと、

逃げ出したくなるだろう。

 

これでは結婚なんてとてもできそうにない。

おひとりさまの覚悟を決め込むべきなのかな。

 

夢中になれる体力を失ってしまってから、

夢中になれる心まで蝕まれてしまった。


もう少し、

夢中に生きていたいな。


夢中に、

幸せを追い求めて、

自分よりも大きな世界に対して、

使命感を持って生きていけたらな。


そういう時期って、

どこで終わってしまうのだろう。


子供の頃は、

何に対しても夢中だったのに、

 

世界と自分が密結合していて、

「世界に何か影響を与えられる自分」

そういうものを信じていたものだから、

世界が輝いて見えた。


夢中に生きるって、

どうしたらいいんだったっけな。


思い出そうとするほどに、

それが遠くに行ってしまう気がする。

 

考えれば考えるほど、

何か理由を探してしまうのだ。

それでは夢中になんてなれっこないな。

 

大人になると頭で考えるようになる。

だから夢中になれないのか。