「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

スクラップアンドビルド

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羽田圭介さんの芥川賞受賞作、

手に取る機会があり読んでみた。


著者は私と同世代、

他の作品を読んではいないけれど、

「これは」と思った。


「言いたいことを代弁する」

その意味で世代の旗手として力を見せつけた作品、


設定がとてもうまい。


28歳、無職の主人公、

要介護で「死にたい」が口癖の祖父と同居、

母は実父である祖父を蔑ろにしている。


主人公は自分を再構築するために努力を重ねている。

ハードなトレーニングと行政書士の勉強に精を出して、


だいぶニヒルなくせに、

「自分を高めようとしない人間は無価値」

そういう信念のもと生きている。


祖父と大して歳の変わらない、

クリント・イーストウッドに尊敬の念をいだきつつ、

「死にたい」が口癖の祖父と、

「私なんてブスだから」が口癖の、

「とりあえず」付き合っている小太りの彼女に対して、

抑えがたい嫌悪感を抱いている。


そんな意識高い系なのに、

設定は敢えて「無職」の主人公、


そこに凄みを感じる。


面接に落ち続ける主人公、

努力を重ねても社会的に認められるとは限らない。


「医療費」と言う形で、

老人を無駄に延命させるために、

社会から無自覚に搾取され続ける若者たち、


リターンを望めない、

今を自転車操業するための年金、

無職ながら律儀に払ってきたけれど、

馬鹿らしくなり払うことをやめる描写、


30歳前後、

「まだ先に進めるかもしれない」

「そろそろ身を固める時期かもしれない」


「社会と自分」

そのことについて向き合うと言う意味では、

最も多感なお年頃、


そして「若者」といえる最後の年代、


少なくとも無自覚ではない、

小賢しい若者から見た社会構造の歪さを鋭く抉り出す。


祖父に対して度を超えてイキり出す主人公、

「大丈夫かこいつ」と思ったが、

最後に救いがある。


役割があることで祖父に居場所をもらっていた。

そして祖父は自分が思うよりもずっと、

「生」にしがみつき周りに感謝していた。


自分のちっぽけさを知ることは「救い」


スクラップアンドビルド


タイトルが秀逸、

これを1つの物語として、

これ以上ない形で表現している。


本来は前向きな意味、

「効率化」の象徴として使われる単語、


だけれども本作では、

サイレントマジョリティー」


「社会を再構築してほしい」という、

若者たちの声にならない叫びなのだろう。


「死にたい、死にたい」って、

何をするでもなく生きるために生きる老人、

(表向きはそう見える)


そのために湯水のごとく使われる税金、


そういうのに、

若者たちだって気がついているよ。


ただ多くの場合は力がない。

力があっても自分のためにしか立ち上がらない。


日本って、

そういう国になってしまったのかな。


もう5年くらい前の作品、


5年経って変わったことは、

少しズレた子育て支援少子化対策くらい、


男性社員は育休を勧められるけれど、

取ったところで戻ってきたら居場所はない。


女性社員はこぞって産休、育休を取り、

当たり前のように「復帰するかは定かではない」という。

その間、給与の6割は保障されるという。


「自分の身は自分で守るしかない」


もうみんなそうなってしまったよ。

だから社会を変えようだなんて誰も思わない。


若者たちは搾取を受け入れて、

「自分で考える」と言う手間を手放した。


娯楽は世界に溢れているものだから、

興味のあることだけをして楽しく過ごしていればいいのだ。


「諦めることに慣れてしまった」


手に入らないものはたくさんあるけれど、

それに近いまがい物もたくさんある。


自分にはまがい物で十分、

ほどほどに幸せならばそれでいいじゃない。


「飼いならされているな」


どうやらいつの間にか、

社会に飼いならされてしまったようだ。


もしかしたらそう見えるだけで、

心のうちはどうなのかわからないけれど、


なんだか鈍く、

ほんとに鈍く、

ほんの少しだけ、

だけれども、

芯に響くように、

やる気を起こさせてくれた。


そんな作品、

 

年上のお姉さま

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「あいつはあいつは可愛い、年下の男の子」


可愛いかどうかは別として、

今回の私は年下の男の子、ではなくおっさんか。


少し年上の女性と、

小洒落たランチをしてきた。


小洒落たどころか、

ランチにしてはかなりリッチだった。

「この値段で飲み物は別か」と思いながらも、

一杯ずつお酒をいただく。


相手が年上のお姉さまだからだろうか。

少々背伸びするくらいが丁度いいのだ。

もともと年上に可愛がられるタチ、


お相手の見た目は可愛らしい。

抜けていてマイペースだけれども、

年上だからか、所々でリードをしたがる。


どうやら私は「面白い」らしい。

女性との会話にもだいぶ慣れたものだ。


共通の趣味の話、

お互いの趣味・趣向を理解しながら、

意外な一面に心を揺らす。


そんなひとときだった。


この先があるのかな。

女性の態度から気持ちを読み取る能力は、

自尊感情とともに喪失してしまった。


とりあえず次のお誘いはしてみたけれど、

返事はまだない。


他愛のないやり取りでつなぎとめている。

私も相手もこの先を決めかねているのだ。


今週末にはまた別の方との約束がある。

こういう駆け引きみたいなのって、

本当に向いていないな。


同時にやり取りをして、

そのうちの一人としか結ばれない。

誰とも結ばれないことだってある。


「とりあえず」なのだ。

「とりあえず」先に進みたいから動いている。


「とりあえず」会って、

「とりあえず」付き合って、

「とりあえず」結婚する。


結局はそういうものなのかな。


まあいいや。

きっかけなんてどうでもいい。

最後に幸せになることができれば、

なんだっていいのだ。

 

新しい分野で力をつけたい

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ここ3年くらいは毎年成長を実感できている。

色んな苦しみを乗り越えてきているから、

 


だけれどもここに来て、

それがあまり収入に結びついていないと感じる。

 


効率的にタスクをこなして、

割とマメに自己啓発をして、

毎日アウトプットをしている。

資格にも挑戦して結果は出ている。

 


だけれども何かが足りないのだ。

 


20代はがむしゃらに動けていたものだから、

単純に運動量は足りないだろう。

だけれどもそういうことではない。

 


どこかに余力があるのだ。

 


自律神経をバカにしてしまって、

体調を崩しやすくなったものだから、

あまり無理をしなくなったのだけれども、

 


その分「命を燃やしている」

そういう感覚が足りないのかもしれない。

 


そういうものには魔力がある。

自制してあげないと体のシグナルに気がつけなくなる。

 


バランスが難しいな。

 


こういうのって、

相手が見つかれば満たされるものでもなさそう。

 


「パートナーが欲しい」

 


そういう欲求にばかり目が向いていたけれど、

私の中には欲求がいくつもあって、

「こうなりたい」「ああなりたい」って、

そう思って生きているのだな。

 


地に足つけないといけない。

着実に力をつけないと、

 


今いる環境でしか通用しない力に頼っていても、

きっと私は満足できない。

 

勘違いしちゃいけない

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苦しいよ。

もうここから逃げ出したいよ。

なんでこんな目に合うのだろう。

私だけ、なんでこんな目に、


「勘違いしちゃいけない」


世の中に苦しみはたくさん溢れているのだ。

それこそ想像もできないような苦しみも、

たくさん、たくさん、溢れている。


人はおめでたい生き物だから、

「他人事」ではなくて、

「自分事」になった途端に、

直面した苦しみを何倍にも感じる。


「まさか自分がこんな目に合うとは」

 

そうやって苦しみを遠ざけているけれど、

何十年も生きていれば、

そういうことの一つや二つはある。

統計的に見てなんの不思議もないことだ。


それを大袈裟に喚くものだから、

傷口は広がるばかり、


「いい加減にやめたらどうなの?」

 

自分をかわいそうな奴に仕立て上げることは、

そんなことをしたって慰めにもならないでしょ。


「かわいそう」


かわいそうなやつのままでいることがかわいそう。

自分で自分を哀れんでいるのだから、

その先に成長はない。


「負け組の条件」


別に無職だろうが、

病気だろうが、

体が不自由だろうが、

婚約者に逃げられようが、

犯罪者の子供だろうが、


そんなのは負け組ではない。


自分をかわいそうな奴だと思い込んで、

そこから這い上がろうとしない奴が、

そういう奴が負け組なんだよ。


「勘違いしちゃいけない」


高収入だろうが、

資産があろうが、

スポーツ万能だろうが、

素敵なパートナーがいようが、

名声を手にしてチヤホヤされていようが、


その立場にあぐらをかいていたら、

そこから先の成長はない。


現状に甘んじたらそこで終わり、

そこから手に入れられるものは、

死んだら全て消えてしまう少しばかりの優越感だけ、

 

努力し続けられる人が幸せなんだ。


そして、

努力が報われた時に、

人目も憚らずに大泣きできる人が幸せなんだ。

 

そういう人が、

本当に幸せな人、


「勘違いしちゃいけない」


幸せって、

自分の内側から湧き出てくるもの、

 

口をパクパクと開けているだけで、

誰かが運んできてくれるものではない。

 

どんなに恵まれていても、

どんなに苦しんでいても、

 

勘違いしちゃいけないのだ。

 

許すよりも憎むほうがよほど楽

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誰かのせいにしていればいい。

そうしていれば前に進む必要はないのだから、


いつまでも文句をたれて、

勝手にイライラして、

「うまくいかないのはアイツのせいだ」


そう思うことで自尊心を守る。

過保護なくらいに何層にも包み込んで、


だから心は動くスキマもない。


「悪くないんだよ」って言い聞かせて、

「相手が不幸にならないか」ってそんなことばかりを監視して、


無駄に労力を使うから、

何かが進んだ気になっているけれど、

結局は何も進んでいない。


人はかけた時間に比例して、

その対象に執着するようになる。


「許す」事ができないからって、

どんどん執着ばかり増していく。


できるだけ早く手放したほうが身のためだよ。

一刻も早くにさ。


それができれば苦労はいらない。

だから関わらない。


関わらざるを得なくても、

心を動かさない。

淡々とやるべきことをこなすだけ、


「心を動かさない努力」


始めはそれが必要だけれども、

徐々にそれが当たり前になるはず、

所詮は時が解決するのだ。


「許す」ことができない。

それならばせめて「憎む」ことはやめる。


相手のためではない。


自分の心を守るために、

まずはそこから取り組むしかない。

 

〇〇ロス

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最近だと嵐の二宮くんの結婚、

高橋大輔選手の引退、

ラグビーW杯やテレビドラマの終わり、

愛犬の旅立ちなど、


当たり前のように側にいた存在が、

遠くに行ってしまうと感じた時に、

人は寂しさを感じる。


「〇〇ロス」というやつ、

 

昨年は愛犬を失った。

「ペットロス」


失恋も経験した。

「〇〇(相手)ロス」

 

失うものばかりで、

手に入るものはあまりない。

心に余裕がないのかな。


ロスというくらいだから、

失った分、

心に隙間ができる。

 

そこを何かで埋めることができれば、

先に進むことができるのかな。


最近わたしの周りでは第二次結婚ブームが起きている。

第一次は30の少し前、


多くの友が逝ってしまった。

超えられない壁の向こう側へ、

「人生の墓場」と呼ばれる遠い場所へ、


そして今回も、

離れていってしまうのだ。


食事をしていると、

指輪の話、

披露宴の話、

両家への挨拶の話、


私は蚊帳の外だ。

どんどん逝ってしまうのだな。

私は最後まで取り残されてしまうのかな。


相手すら10年以上もいない。

もはや手遅れかもしれないな。


「友人ロス」


結婚すると、

時間の使い方が変わるのだ。

おっさん同士で馴れ合っている暇はない。


「みんないなくなる」


人生の岐路、

30代、


クールを装っても、

高揚感は伝わってくる。


どいつもこいつも幸せそうにしやがって、

 

私の分まで、
お幸せにどうぞ、

 

 

そうするしかない

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「諦めて別の道を進めばいい」


傍から見ればいとも簡単なこと、

だけれども当人からすればそれができない。


そういうことってままある。


すっぽりと穴にハマってしまい、

身動きを取ることができない。


代わりの何かで埋めようとしても、

どこかピタリとハマらない。


そういうのって時が解決してくれるのかな。


依存症に近いのかもしれない。

そうなると治療は難しい。


0.0000001%の成功率に懸けて、

諦めないのも一興、

その先の成功を掴むことで英雄ともてはやされる。

そういうこともあるかもしれない。


「現実を見なよ」


多くの場合はその言葉を繰り返し浴びせられて、

軌道修正を始める。


後になればなるほど、

取り返しがつかなくなるのだから、


「夢を追う」って、

一種のギャンブルなのかもしれない。


成功者の影には死屍累々、

なんとも悲惨な光景が広がっている。


メディアは目立つところにしかスポットライトを当てないけれど、

今は少し調べるだけで死屍累々側の情報は手に入る。


「将来の夢は公務員」


それだって努力が必要だけれども、

「夢」としてときめくものはない。

「夢のカタチ」って大きく変わっているのかもしれない。


ドラマ『同期のサクラ』

私の夢は「ふるさとの島に橋をかけること」


その夢は叶わなかったけれど、

その後に新しい夢を打ち立てた。


私の夢は「私と同じように多くの人が信じ合える仲間を持つこと」


7話までは良かったのに、

取って付けたような終わり方に辟易した。


「仲間」たちは急にサクラを煙たがる。

「仲間」って言っても、

結局はそれぞれに生活があって独立した個人なのだ。

密結合しすぎると煩わしくなる。

最後は自分の足で歩くしかない。


そういう持っていき方かと思いきや、

最後は仲良しごっこで終わる。


「夢」って変わるもの、

それを受け入れられる柔軟性が必要、

「夢」に縛られて不幸になったら元も子もない。

 

例えコロコロと夢を変えることになったとしても、

真剣にそれに取り組んでいればそれでいい。

「夢」それ自体が道標なのだ。

 

人は目的がなければ生きてはいけない。

だから自分で自分の道標を奪い取ってはいけない。

取ってつけたようなものであっても、

そういうものは必要なのだ。

 

「夢を持とう」


自分を幸せにしてあげられるのは、

自分でしかないのだから、

 

だけれども、

安易に「夢を持とう」だなんて、

そんなことを言う奴は信用してはいけない。

 

こればかりは自分で決めないと、

どこにもいけなくなってしまう。