「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

不倫を叩く心理

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不倫騒動の渦中にある、

東出昌大氏の会見、


とても誠実に見えるけれど、

どこか芝居の延長線上みたい。


妙に白々しく感じたのは私だけだろうか。


まあ性欲をコントロールできなかった結果だ。

人間的に未熟だったことは間違いない。


誰に対しての気持ちかはともかく、

反省していることは間違いないのだろう。


会見を見て初めて知ったのだが、

お相手の唐田さんは『凪のお暇』に出ていたあの子か。


とても健気でかわいそうな役柄だった。

「自分なら凪ちゃんよりもこっちの子を選ぶのに」

そう思いながら見ていた。


現実のほうでも残念な結果、


人の不倫に興味はないので、

背景やら経緯は知らないけれど、

こういうタイプで売っていての不倫は致命的、


「不倫した女」って、

イメージは一変する。

そうやってたくさんの美女が失脚してきたものだ。


だけれども、

そもそも不倫で損をする人って、

当事者くらいでしょ。


まあ、表の顔という虚像に踊らされて、

「ファンだったのに裏切られた」ってのはあるか。


それを考慮しても、

世間の不倫に対する風当たりって、

実害に比べて大きすぎる気がする。


おそらくその正体って、

「自分はルールに従って生きているのに」って、

そういう僻みからくるもの、


ルールを守っている自分が損をするから、

「ルール」が形作る世界を脅かすから、


ルールの世界で生きている人は、

ルールを破る存在を排除したがる。


それが過剰な嫌悪感の正体なのだろう。


ルールに守られているくせに、

ルールを守らない、

社会はそういうタダ乗りのフリーライダーが嫌いなのだ。


だけれども、

もしも「結婚」という契約行為に、

「不貞行為禁止」という制約がなかったら、

そして社会的に制裁を受けなかったら、

自分も不倫するの?


「する」


そう答えるならば、

何で結婚したんだろうね。


「しない」


そう答えるべきでしょ。

いや「答える」ではないな。

そうあるべきでしょ。


「何年経っても、何十年経っても、

一人の相手とともに歩んでいく」って、

形ばかりでもなんちゃら式でそう誓ったのだろうから、


それだけの思いがあって、

結婚したんじゃないのかな。


結局は個人の人間性の問題、


「ルールを守れない奴はクズ」


世間はそうやって叩くけれど、

そういう問題ではないのだ。


「結婚は恋愛の終着点」


もうこれ以上、

恋で悩まなくてもいい。


私はそういう結婚を望んでいるから、

もがき苦しんでいるのだけれども、

世間の価値観って違うのかな。


倫理観だとか、

相手の感情だとか、

自分の気持ちだとか、

そういうものを気にしすぎて貞操を守り続ける。


そういう私みたいなのも、

それはそれで問題だけれども、


おそらく私は「不倫」と対極にある存在、

それが良いのか悪いのかはわからないけれど、

そうやって少しは「いい人」アピールでもしておくか。


性欲をコントロールできているのかといえばそうでもない。

ただチャンスを逃し続けている臆病者ってだけなのだけれども、

 

「いい人」はどこまでいっても「いい人」で終わってしまう。

知らぬ間に搾取されているよ

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「誰かの役に立ちたい」だとか、

「社会に貢献したい」だとか、

そういうことを目的に社会人をしている人、

そんな人とたまに出会う。


それはそれで尊いことなんだけれども、

それで足元を見られてしまっては元も子もない。

 

自分が使う側ならば志は大事だけれども、
使う側の多くはそんな事考えていないよ。


CSRだとかSDGsだとか、

小洒落たCMと同じようなもの、

ブランディングために企業はそういうものを謳うけれど、

実際に働いてみたらなんてことはない。


ほとんど形だけ、

そういうもの、

 

働くってさ。

会社や組織のためにすることじゃない。

ましてや隣に座っている人や上司のためでもない。

 

自分を幸せにしてあげるために働くのだ。

 

幸せな形は決まったものではないけれど、

社会人を長く続けるつもりならば、

少なくとも言えることは、

自分に知識と経験を積み重ねて、

市場価値を上げるために、

まずはそのために働くのだ。


会社の利益を生むために働く対価が賃金、


だけれどもそこから自分の取り分は、

きっちりといただかないといけない。


「使命感の搾取」


このテーマでは一度記事を書いているけれど、

最近、私の周りでは特に目に余ると感じるものが多い。


社会や組織って、

責任の所在は曖昧で気がつくと手に負えないくらい大きくなっている魔物、

 

そんな魔物は狡猾に立ち回るから、

当たり前のように搾り取る。


自分の価値を信じられない若者、

それが格好の餌食だ。


使命感とは違うけれど、

政治だってそう。


若者は関心がないものだから、

年寄と金持ちに有利な方向ばかりに進んでいる。

 

アメリカの大統領選や、

暴力に訴えることはともかくとしても、

香港の若者たち、

 

熱いところは熱いのだ。

 

若者たちが熱量を示していかないと、

構造は変わらないのだろう。


「搾取されている」


それを知っていて動かないのならば別にいい。

だけれども知らないうちに搾り取られているよ。


気がついたときにはカラカラに干からびている。

できることは潤いを求めて彷徨うだけ、


手遅れになる前に、

少しでもルールを作る側に食い込んでいかないといけない。


いつだってそう。

弱いところから搾り取る。

 

どんなに表面ばかりきれいに飾っても、

社会ってそういうもの、

 

最近話題らしいワード「エシカル消費」とは?

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DXやらSDGsやら、

シェアリングエコノミー、


そういう言葉と同列として記載されている、

見慣れないワードを見つけた。


エシカル消費


単に私の勉強不足かもしれないが、

初めて目にするワードだった。


簡単に調べると、

狭義での「フェアトレード


誰もが搾取されない、

そういう生産から流通、

そして消費を目指すというもの、


さらにはそこから先、

発展的に社会貢献を行う付加価値をもたらす。

そういうところまで目指すらしい。


要は「個々人が消費行動を変えていきましょうよ」ってこと、


あれだ。

流行りの「サステナブル」ってやつだ。


そこにいろんな形のアプローチがあるってこと、


少し値が張っても「フェアトレード」や「リユース」「リサイクル」を選んだり、

「送料無料」の先で搾取されている運送業者に目を向けたり、

残業代を搾取される「名ばかり管理職」という立場に抗議の声を挙げたり、

 

社会という枠組みがあると、

多くの場合はどこかにしわ寄せがいくもの、


「搾取」というと聞こえは悪いけれども、

それに近い構図はどこに世界にもある。


日本人はどちらかといえば、

そういう恩恵を享受する立場、


だけれどもにわかに、

いや徐々になのか、

社会貢献への希求って高まっている。


就活生の多くは、

企業がどういう社会貢献をしているか。

そういうものを気にするらしい。

 

その多くはパフォーマンスや税金対策だってわかるから、
社会人にかぶれてしまうと、

そんなことは大して気にもしなくなるのに、


「景気が悪い」といわれても、

それでも日本は物質的に豊かなのだ。

(もちろん世界の中で相対的にという意味で)


だから外に目を向ける余裕がある。

そして自分の行動の先にあるものにも目を向けるようになる。

そういうところで自尊感情を満たそうとする。


その気持ちはわかる気がする。

誰かの役に立ちたいのだ。


自分の存在価値が揺らぐほど、

人は優しくなれるのかな。


うまくいっているとどこか傲慢になってしまう。

知らず知らずのうちに傲慢になっている。

そしてどこからか取り返しがつかなくなる。


きっとそういうもの、


いつまでも謙虚で、

イライラすることがあっても、

やるべきことには支障を出さないようになりたい。


このままでは、

自分が嫌いになる一方だ。


このままだと、

自分がどうなりたいのかを見失ってしまうな。


エシカル消費


人のためのように見えるけれども、

結局は自分のため、


どこか満たされない自分自身を、

人の役に立つことで満たしたいのだ。


億万長者になると、

揃って慈善事業を始める。


経済だけではない。

人の心にも「神の見えざる手」が働く。


需要と供給というものは、

どうやら私が思う以上によくできているようだ。

 

アニメ版『鬼滅の刃』全26話を見た

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休日は引きこもって、

Amazonプライムばかり見ているものだから、

最近はアニメが捗る。


その中でついに話題になっていた『鬼滅の刃』に手を出した。


ジャンプを離れて久しいのであまり知らなかったけれど、

めちゃ人気みたい。


オリコンのコミックス週間売上ランキング1〜18位を占めるくらい、

さらに新刊は売り切れ続出だったとか、

今年の2ヶ月だけで2000万部以上売り上げているとか、

(年間の歴代最多は2011年ONE PIECEの3800万部)


もはやなんやねんって話だ。

歴代最多の更新は間違いなさそうな勢い。

アニメをしてから急激に人気が高まったらしい。


とてもよくできていた。

一週間もしないで26話全て見てしまったくらい。


王道の勧善懲悪ではあるが、

主人公は人を殺しまくった鬼にまで同情をするほどの優男、

それでいて思わず応援したくなるほどの努力の塊だ。

 

作者は女性との噂、

確かにあのタッチやキャラ設定のふわふわした感じ、

女性らしさを感じる。


スタートから鬼に家族を惨殺されるというインパクトの凄さ、

少しずつ明かされていく世界観、

心揺さぶられる兄弟愛、

特に19話の演出は見事としか言いようがない。

鳥肌が立ったほど、


アニメ版を最後まで見てしまったら、

続きが見たくなるのはとてもよくわかる。

それだけの作品だった。


ジャンプのテーマ、

友情、努力、勝利をコテコテに取り入れている。


今や投稿元の多様化で、

気をてらうようなタイトルの作品ばかり溢れるようになった。

だからこそ逆に王道が新鮮なのかもしれない。

「なんともまぁ」と思うくらいにコテコテだ。


主人公が壁にぶつかり強くなる。

さらに強い敵が現れる。

さらに努力して強くなる。

主人公の血筋にはすごい秘密があり、

実は強くなるべくしてなっている。


まさにRPGの王道だ。

だからこそ真っ直ぐに響く。


「多様性、多様性」って、

個性ばかりを求める社会、

だからこそ必要なのは「温故知新」なのかな。


田んぼのど真ん中で「好きだ」って叫ぶ。

そういう純朴さが案外ウケるのかもしれない。


「鬼は悲しい生き物」


憎しみに駆られてしまったり、

不幸に負けてしまったり、

人の心はそこまで強くはできていない。


「鬼打ち」だってそう。

親しい人を殺されてしまい、

鬼に対する憎しみを糧に強くなる。


憎しみの連鎖なのだ。


その中でも自分の筋を通して、

誰から何を言われようと、

信念に従ってブレずに突き進む。


何だか鬼滅を見て、

とにかく真っ直ぐ進むことは、

間違ってはいないんだなって思えた。


「鬼」って現実にもいるな。


自分の立場を守るために、

人を食い物にする。

そんな鬼たちがたくさんいるな。

 

どこか自分の人生に期待しすぎている

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きっと大きな理想像があって、

現実との乖離に嫌気がさす。


それでも歯を食いしばって、

その理想像を必死に追ってきたけれど、

それって何のためにしているんだっけ?


「人生に期待しすぎている」


趣味が「努力」だって人は、

「理想像」を燃料にして手足が動く限り動き続ける。

手足が動かなくなると、

そこからは「気力」に手を付ける。


本来は取っておかなければならない「気力」

そこに手を付けて心の燃料を振り絞るように動き続ける。

それを使い果たして空っぽになるまで動き続ける。


心地よい疲労感で終わればいい。


だけれどもイレギュラーは起こるもので、

心の燃料を使い果たした後に負荷がかかってしまうと、

もはや手の打ちようがなくなってしまう。


どこかに余力を残しておかないといけないのだ。

 

人生って、

うまくいく場合もあるし、

うまくいかない場合もある。


理不尽なことだってたくさんあるし、

己の信念に照らし合わせて許容できないこともある。


そういうことに対峙したときに、

どのような行動をとるかは自由、


だけれども忘れてはならない。

すべては「自己責任」なのだ。


人生に期待して前に進み続けるもよし、

だけれどもその結果報われなくて、

心が擦り切れてしまっても自己責任、


ほどほどに余裕をもって生きるのもよし、

だけれどもどこか虚しくて悶々とした人生を送り、

死の間際に後悔をしても自己責任、


私は自分の人生に期待しすぎているのかな。

「自分はもっと報われるべきだ」って、

そう思い込んでいるのかな。


だけれども、

できない奴ほど自己評価が高いらしい。


「ダニング=クルーガー効果」ってやつ、


理不尽に裏切られて、

「うまくいかない」って思っていても、

それって自分のダメなところを目隠しして、

見て見ぬ振りをしているだけなのかな。


それではいつまで経っても、

人生はうまくいかないはずだ。

 

どう考えても、

何か方向転換をしないといけない頃合いだ。


どう転んでも「自己責任」

そのことだけは忘れないようにしないと、

 

二階堂奥歯『八本脚の蝶』

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「世界の見え方」は人によって違う。


私に見える世界は、

どうやらまだまだ薄っぺらいようだ。


私がこんな私になってから、

まだ4年足らず、


その4年間で急速に取りこぼしてきた色々なものを回収している気がする。

 


二階堂奥歯『八本脚の蝶』


25歳、

若くして自死した女性編集者、

自らの筆での死の報告を最後に更新は途絶えた。

一部ではカリスマ的な人気を集めていたそのブログをまとめた本、

単行本は絶版で1万円オーバーの値が付いたこともあるらしい。


その文庫本が17年の時を経て、

2020年の2月に出版された。


ブログは今でも同じタイトルで残っている。


少し読むだけで心がズキズキと痛む。

特に死に向かう終盤だ。

「凶器」と言えるくらいに危険な文章たち、

それが私の心を目掛けて牙を向きだしにする。


彼女が好きな本として挙げた3冊のうちの一つを、

偶然にも私は所持していた。

めったに手に取らない相当にお堅い一冊なのに、


作中に登場する作品の数は膨大だ。

それだけ彼女は「生きてきた」のだろう。


私に縁のあるものはほんの一部だけれども、

見覚えのある作品や作家、アニメに漫画、

未読だけれど気になっていたそれら、

つらつらと並んでいる。


響くものがあるってことは、

思考が近しいのかな。


少しばかり自尊心を満たすとともに、

空恐ろしく思った。


ブログの書かれていた2年間、

私は鼻を垂らしながら何も考えずに、

形ばかりの勉強をしながらゲームと部活に興じていた頃だ。


彼女はその間に、

世界の正体を突き止めようと、

ありとあらゆる文献を漁ったり、

当たり前のことから、よくわからないことまで、

あらゆることの「経験主体」になりたいって、

首を突っ込んでみたり、外から眺めてみたり、

そうして生きる理由を探した。


だけれども、

そうやって動けば動くほど、

「絶望」という病に蝕まれることになる。

 

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「答えなんてないよ」


いくら外の世界を探したところでさ。

明確な答えなんて見つからない。


「自分らしさを見つけること」


この世界に「答え」と言えるものがあるのならば、

それは自分の内側にあるんじゃないのかな。


自分が何に心を震わせて、

何におかしみを感じて、

どうしたら死にたくなるのか。


そういうものと向き合う作業が、

「生きる」ってことなんじゃないかな。


だから「生きる」って大変なこと、

辛くて苦しいこと、


そうでなければそんな人生は嘘だ。


どこかに救いがあるとするならば、

それは日常にちりばめられている。


ふとした時に感じる安らぎや高揚感、


そういうものを拾い集めて燃料にする。

だから明日も生きられるんじゃないかな。


世界の正体に近づくほどに、

こうした日常は色褪せてしまう。

 

自らの精神世界に閉じこもってしまって、

浮世のことに興味がなくなってしまうから、

 

だから、

大好きなあの子に振り向いてもらいたいだとか、

誰かに認めてもらいたいだとか、

コンプレックスを解消したいだとか、

そういうことで悩んでいる方が健全だ。

悩んでいないよりも健全だ。

 

悩みが人間存在の証明だとか、

世界のあり方だとか、

そんなものに及んでしまうと、

どう頑張っても一人では抱え切れない。


足元に目を向けて今日を生きる。

今日生きられたら明日を生きる。

その繰り返しで気が付くと最後の日はやってくる。

 

「もういいかな」って日もたくさんある。

そんな日は負けを認めてしまえばいい。

心は動かなくても手足は動かして、

負けを認めてしまえばいいのだ。


時間を費やした分だけ、

人はそのことに執着するようになる。


「理想像」が大きくなりすぎると、

それに取り込まれてしまって、

「こうあらねばならない」って、

身動きが取れなくなる。


今日が楽しければいい。

明日も楽しければなおいい。


今日が辛くたって、

明日も辛いとは限らない。


結局はそうやって馬鹿みたいに、

ただ生きられるのって幸せなのかもしれない。


彼女は側から見て、

決して不幸な境遇ではなかった。

優しい恋人を愛して家族から愛されて、

だけれども自死を選んだ。


「信念は諸刃の剣」


人生に彩りを与える代わりに、

足を踏み外してしまうと「絶望」の世界に真っ逆さま、


だいぶこじらせてはいるけれど、

私はまだ手遅れなほどではないようだ。


自分に見える世界が薄っぺらくて良かった。

才能がなくて本当によかった。


しがみつくでもなく、

ただあほの子みたいに、

あるがままに「生」を享受しよう。

 

少なくとも今はそう思える。

 

勃っていたくせに

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先日記事にした、

『荒ぶる季節の乙女どもよ。』のワンシーン、


めでたく主人公と結ばれた彼氏さん、

主人公の友達から言い寄られる。


「初めて同士だとうまくいかないよ。

 私と練習しない?」って、


満員電車で密着する体、

それを痴漢から守る名目で抱き寄せる。

間近に聞こえる荒い息遣い。


男ならば仕方がない。

これは勃ってしまう。


たまらず飛び出した停車駅で、

「私としたくないの?」って、

追い打ちをかけられる。


そこで彼氏さん、

「したくない!」って、

勇気を振り絞った一言、


ところが、

すかさず反撃を受ける。

去り際に耳元で「勃っていたくせに」


ここから彼氏さん、

自分の不誠実さに打ちのめされて、

主人公とさらに向き合うことになるのだ。


結果的にこのことが主人公と彼氏さん、

その二人の仲を深めることになる。


この作品のすごいところで、

サンテグジュペリの『星の王子さま』を掛けてくる。


花と仲直りをしたい王子様に助言した狐、

本当は王子様とずっと一緒にいたいから、

仲直りをさせたくなかったらしい。

(あくまでも作品の中の解釈で本当はどうだか知らない)


誘った友達は思いを寄せていた人から、

「お前は狐だ」って葉っぱをかけられる。

そうじゃないことを証明しようと動くけれど、

結果その通りになる。


改めてよくできた作品だった。


「勃ってしまった」


それを不誠実さと捉えて葛藤する純粋さ、

いかにも青春の甘酸っぱさだなと思う。


さすがの私もそれほど純粋ではない。


だけれども、

そういうのっていいなと思う。


もうそういう恋愛ってできないのかな。


私の人生では始まることもなく、

失われたものの一つだ。