「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

頭の良い人に「それらしいこと」を言うと相手が勝手に脳内補完してくれる

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「面白いな」と思ったこと、


私に大した知識がないことを聞かれたときに、

あくまでも一般論で「それらしいこと」を答えてみる。

村上春樹氏の小説のように、

知的ぶった言い回しならばなおさら良い。


すると「あたりまえやんけ」って思うような答えなのに、

頭の良い人は「何か意図がある」と思い込んでくれて、

「こういうことですよね」って勝手に論理展開を進めてくれるのだ。


そうなると私は「それらしく」

相手の言ったことの言い回しを変えて反復するだけ、

最後に「そういうことだと思います」とでも言っておけばいい。

断定は決してしないのが味噌だ。


多くの疑問に対してさ。


人はある程度答えを持っているのだ。

「誰かに話すこと」でそれを後押ししてほしいだけ、


「頭の良い人」


それを定義付けるのは難しいけれど、

何でもかんでも物事を深く考察することを生きがいにして、

プライドが高く「わからない」とは言えない。

そんな「自分の頭で物事を考えて生きている素晴らしい人」とすれば合点がいく。


ちょっとした刺激を与えるだけで、

自分の頭で考えて答えにたどり着く。


自分の力でたどり着いただけなのに、

私に相談して良かったって思ってもらえて、

また相談が舞い込む。


ある種の「コンサル」なんて、

きっとそんなお仕事なのだ。


穿った見方をされてしまうと、

おそらく「対価に見合った働き」はしていない。


だけれども、

「聞く力」


そういうものを提供しているのだと考えると、

まんざら「無価値」とも言い切れない。


要は「課題解決」につながればいいのだ。


それに「自分でたどり着いてもらった」方が、

相手にとっても望ましいことだろう。


私は「人から何かを聞かれた」とき、

また「人に何かを聞く」とき、

自分のナレッジにすることを心掛けている。

そして相手のナレッジになれば、なお良いと思っている。


そうやって「Win-Win」の関係を増やしていく。

「人間関係」ってそういうものなんじゃないかな。


ブログだってそうだ。


私は皆さんのブログから多くを学んでいるし、

私のブログが誰かの役に立てばなお良いと思っている。

 

コンセンサスがコンプライアンスで、

ガバメントがアバンチュールしているのだ。


「ギバー」(=Giver 与える人)


そういう言葉が流行っているけれど、

「ギバー」になろうとしてなるのではなく、

自然と「ギバー」であるように、

人格を磨くことが大事なんじゃないかな。

 

とまあ、

そういうことにしておけばいい。

 

「不誠実さ」に理由をつける。

そうやって人は生きているのだ。


小難しいことを並べて、

簡単に書けることを難しく書いて、

「それらしい」結論でまとめる。


お察しの通り、

言い分けがましいこの記事自体が、

私の「自己肯定作業」だ。


「なるべく人を道具として見ない」


そんな理想を掲げているくせに、

私は「マキャベリスト」の気質が強いのかもしれない。

 

なるべく「楽に生きようとする」

そんな自分が嫌いではないのだから困ってしまう。

 

私がブログに書いていることは、

どこまで本気なのだろう。

 

とりあえず「寄りかかってくる」女性のことを思い出した

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結構前のことだ。

たまに通っていた飲み屋のイベントに誘われて、

BBQに行ったときの話、


20代前半だっただろうか。

見た目はとても可愛らしい。

そして気配りができる。

だいぶお酒は飲むようだ。

 

周りの話を聞くには、相手が途切れないし、

コミュニティの中でも別れては他の男と付き合ったりしている。


そんな女性がいた。


聞いた話では、

どうやらBBQの参加者と付き合っていたけれど、

最近別れたらしい。


私と彼女は何度か話したことがあるかな、

くらいの関係だ。


彼女が私に寄ってきて立ち話をしていると、

しばらくしたら酔った雰囲気で私の肩に寄りかかってくる。

(実際に酔っていたのかもしれないけれど)


普通の男ならばきっと、

ここから「何か」が進むのかもしれない。


だけれども紳士気取っている私は、

「大丈夫ですか?」って、

その態勢のままその子を抱えて椅子に座らせる。

そして隣に座って水を注いで渡す。


もう一度寄りかかってくるのだけれども、

真顔で「大丈夫ですか?」って起こして水を飲ませる私、

しばらくするとつまらなそうに去っていく彼女、


その時の私はもちろんフリーだ。

それに相手に対して女性としての魅力は感じていた。


「何か」の始め方がわからないから、

紳士気取ることしかできなかったのだ。


「そういうとこだよ」って、

そんな声が聞こえてくる。


しばらくするとその子は、

コミュニティ内の他の人と付き合ったらしい。


「とりあえず寄りかかってみる」


相手からすれば「良さげな人」であれば、

誰でもよかったのかもしれないし、

そもそも誰に対してもそんな感じなのかもしれない。

 

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何故このことをほじくり返したかというと、

ここまで露骨ではないけれど、

最近また同じようなことがあったからだ。


またも「魔」の職場だ。


わからないことを聞きたいようだから、

その子の席まで行って教えてあげたあと、

私の寄り道についてくる。


作業をしている時も何となく指が触れるし、

話が終わる頃合いになると、

別の話題を振って引き留めようとしてくる。


今の職場になってからは、

こういうことばかりだ。

それも一人や二人からではない。


何度も痛い目に合っているから、

職場は勘弁してほしい。


お察しの通り、

「モテて困る」って、

自尊心を満たしたいだけの記事だ。


結果は何も出ていない。

「腐れ童貞」の私、


だけれども、

「チャンスがないわけじゃないんだよ」って、

「私は異性として好意らしきものを向けられているんだよ」って、

そんな哀れな「心の叫び」とでも思ってもらえたら幸いだ。


「かわいいな」って、

胸が高鳴るような相手に対しても、

いろーんな「リスク」やら「めんどくささ」が真っ先に浮かぶ。


先のことを考えると、

進む気も失せて、

ただ「かわいいな」で終わる。


それ以上は「心が動かない」のだ。


ブログの初期に書いたけれど、

漫画『恋と嘘


政府が少子化対策のために、

遺伝子レベルで適正な結婚相手をあてがう世界、

そこで「心が求め合う相手」と「遺伝子の惹かれあう相手」との間で揺れる。

そんなラブストーリー、


初めのほうをかじっただけだから、

今はどうなっているのかは知らないけれど、

「自分の相手は自分で選ぶ」みたいな、

概ねそんな筋書きだろう。


筋書きはさておいて、


もうさ。

この世界のほうがいい。


随分前から私はそう思っている。


科学の力でいいからさ。

強制力が働いていいからさ。

思考停止でいいからさ。


もう一番合う人を紹介してよ。


遺伝子レベルでマッチングした相手だから、

お互いが「一目惚れ」からの絶妙な「居心地の良さ」


妙齢になるとその後の関係の進め方まで、

政府が手取り足取り面倒を見てくれるのだ。


もうさ。

「これがいいな」って思う。


恋愛ほどコスパの悪いものはないのだ。

もはや「恋愛不適合者」の私は疲れてしまったよ。


そのくせ「結婚」はしたいと思うのだから、

始末に負えないな。

 

「読書」との付き合い方について

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平成30年度、文化庁の調査によると、

16歳以上の国民を対象として、

月に1冊以上の読書をする割合は約53%らしい。


この数字は、

16年前の平成14年では約62%と10%ほど高かったようだが、

平成20年以降の調査ではさほど変わらないようだ。

 

平成30年度、

月に3冊以上だと15.0%、

月に5冊以上だと6.4%

こちらは年々減少傾向にあるらしい。


私は昨年、1年間で数えると75冊、

一昨年は確か50数冊、

今年は現時点で34冊だから、

年間で50冊ほどのペースだ。


そう考えると大体、週に1冊、

月に4,5冊は読んでいることになる。

国民の上位10%ほどには入るのだろうか。


「読書家」を名乗っていいのか、

なんとも微妙なところではある。


私にとっての読書は「ライフワーク」だ。

「習慣」と言っていいだろう。


何も読んでいない時期があると落ち着かないけれど、

速読により冊数を稼ごうとは思わない。


じっくりと読みたい本があれば、

1か月をかけて1冊を読むし、

パラパラと1時間程度で読むものもある。


基本スタイルは併読だ。


常に複数を抱えていて、

その時の気分で読みたいものを読み進める。


今年は図書館を使う機会が減ったから、

基本的には購入している。

同じ本を複数回読み直すこともある。


年間で数えれば大体50冊あまり、

「気分」を大事にするフリースタイル、


ブログを書くために本を読むのではなく、

読んでいてブログに書きたい本があれば書く。


私にとっては、

ちょうどいい付き合い方をしているように思う。


中には、

「生きてきた日数よりも読んだ本の冊数が多い」


そんなある意味では「病気」のような友人がいるし、

そう公言する人にネット上でお目にかかることもある。


「読書」というものは、

著者の頭の中を疑似体験するようなものだ。


だから読めば読むほどに、

多くの人生を生きてしまうことになる。


どんどん人生が先に進んでしまって、

「真理」という名の「絶望」を突きつけられて、

その「圧」に耐えられずに命を絶つ。


『八本脚の蝶』を書いた二階堂奥歯さん、


前に記事にしたけれど、

彼女のブログを拝見すると、

「世界を知りすぎてしまった」

そんな印象を受ける。


直木賞作、天童荒太『悼む人』


幼少期から理不尽な「死」に囲まれて来たが、

その「死」を忘れてしまう自分、


それを許せないという罪悪感と闘うべく、

ニュースや新聞を頼りにして、

人の亡くなった場所に足を運んではただ「悼む」

ひたすらにそういう行為に身を委ねる主人公、


彼にとっては、

「生きる」ために「悼む」ことが必要なのだ。

それをしなければ生きてはいけない。


「呼吸」をするように「悼む」


もともと闊達で社交性に富んだ主人公、

何かを大きく損ねてしまうと、

何かにとにかく身を委ねるしかない時期がある。


「生きる」ために、

何かをし続けないと「生きてはいけない」のだ。


私にもそういう経験はある。


何を主張したいのかというと、

私は「読書をそういうものにしたくない」ってこと、


「生きるためにしなければならないこと」に、

「生きるためにせざるを得ないこと」に、

そういうものに読書をしたくはないってこと、


「生きている日数よりも読んだ本の冊数が多い」


そんな私の友人は、

数分でも暇さえあれば本を開いている。


試験などの目的があり、

一時的に時間を惜しんでそうしているのならば、

まだ理解はできる。


だけれども、

まるで「読書」していないと死んでしまうかのように、

何かに憑りつかれたように本を貪っている。


そうなってしまったら、

もはや「読書に生かされている」

そうなってしまうんじゃないかな。


そして、

かれこれ1年くらい音信不通になってしまった。

他の仲間からも連絡が取れないらしい。

 

読書なんて、

「おもしろかったな」だとか、

「タメになったな」だとか、

それくらいでいいのだ。


「読書」に限らないけれども、

「ゲーム」も「お酒」も「異性」も、

一時的な雨除けにするならば身を委ねるのもいい。

 

だけれども、

のめりこみすぎる前に、

「距離感」を考えないといけないんじゃないかな。


「生きがい」ってのはさ。

「一つだけあればいい」と言われるけれど、

「一つに絞っちゃいけない」のだ。


いくつもの「楽しみ」があって、

いくつもの「居場所」があって、

それぞれで自分や周りの人を大事にしてさ。


「織りなす」

そういうものなんじゃないかな。


縦の糸だけじゃダメで、

横の糸だけでもダメ、


中島みゆきさんが歌っているけれど、

「結婚」だけではなくて、

「人生」すべてがそういうものなんじゃないかな。


「読書」を一つの糸として、

私は「人生」を織りなして生きたい。

 

男性の「若くてきれいな人が好き」ってどういうこと?

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昨日は女性の好きな「優しい人」について書いた。

今回は逆の視点で考察してみる。


男性が「好きな女性のタイプ」を聞かれたときに、

「容姿」に言及することは多い。


女性にも全くないわけではないのだろうけれど、

比べるとそれは顕著だろう。


マッチングアプリをしていると良くわかる。

「いいね」の数が全然違う。


写真を載せていなくても20代ならば、

それだけでたくさんの「いいね」が付くし、

アラフォーだとしても容姿がきれいならば、

同じくたくさんの「いいね」が付く。

 

「若くてきれい」

どちらも兼ね備えていようものならば、

「いいね」の数はカウントストップだ。

 

現実問題、

プロフィールの中身なんておまけなのだ。


少なくともコミュニケーションをとる前の段階で、

男性が結婚相手として女性を選ぶ基準、

「容姿」と「年齢」がその多くを占める。


だから「若くてきれいな人」

それが男性の好きなタイプだということ、

そのことに疑いの余地はない。


もちろん「必須」というわけではない。

あくまで「理想」というものだ。


それは男女ともに同じだろう。

 

「理想」と「現実」に折り合いつけて、

互いが一致したところでペアになるのだ。

 

思い描く「理想」のパートナーと結ばれることは、

稀と言わざるを得ない。


それでも男女ともに「理想」があって、

私のようにこじらせている輩もいる。

 

同じ時を重ねる中で、

居心地が良かったり、

きっかけがあったりして、

「この人かもしれない」って、

一緒になっていくものなのだろう。


なぜ男が「若くてきれいな女性」を求めるのか。

理由は明白だ。


「種の保存」みたいな本能的なことを語りだすと、

それだけで終わってしまうので省く。


「性欲」「支配欲」

「欲望を満たすため」だ。


「英雄色を好む」というけれど、

論語と算盤』で有名な人格者、

日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一氏でさえ、

たくさんの愛人がいたのだ。


わかりやすく言えば、

「若くてきれいな女性」は、

男としてのステータスの象徴だった。


今の感覚だと違和感があるけれども、

歴史を紐解くと「男女の関係」って、

そういうものだったんじゃないのかな。


今はそのパワーバランスが崩れているのに、

名残として「若くてきれいな女性」

それがステータスのように残り続けている。

 

「男尊女卑依存症」

そう呼ばれるものの正体だろう。


女性のほうだって自覚はある。

「若くてきれい」

それを武器にしてうまいこと生きていく。

 

いくら否定したところで、

自覚がなくても自然とそうなる。

もちろんそれによる「生きづらさ」もあるのだろうけれど、

 

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「女性の男性化」

社会進出に伴いそれが進んでいる。


逆も言えるかもしれない。


「男性の女性化」

働いて稼ぐだけでは不十分になっている。


もはや「ジェンダーレス」が世界的なトレンドだ。

 

不自然な形で過去の遺物はちゃっかりと残してさ。

男女共に都合よくそれを振りかざして、

世界はどんどんそちらに進むのだろう。


だから、これから先の未来はさ。

多くの男性が女性に「経済力」を求めるし、

多くの女性が男性に「若さ」や「容姿」を求める。

それが当たり前になるのかもしれないな。


人間は「本能」を飼いならしてここまで来たのだ。

もはや何が起きても不思議ではない。


村田紗耶香さんの『消滅世界』だったか。

他にも誰か書いていたな。

 

小説の設定で見かけるようになったけれど、

男性が子供を生む世界、

もしかしたらそんなこともあるのかもしれない。


「男らしさ」だとか、

「女らしさ」

それよりも「自分らしさ」


「それが大事なんじゃないかな」って、

このタイトルを男の私がまとめるとなると、

そういう落としどころにするしかない。


結局は男も女も自分勝手で、

相手に多くを求めているのだ。


人類の進化が先に進みすぎて、

もはや「パーフェクトヒューマン」というべきか。

そういうものを目指して成長し続けるしかないのかな。


生まれたときから膨大なアーカイブに、

自由自在にアクセスできる時代、


私の世代はまだそこまでではなかったけれど、

今の子供たちは生まれたときから当たり前のように、

スマートフォンなる「パンドラの箱」が、

そこかしこに転がっているのだ。


「博士ちゃん」だとかって、

尖がった知識をテレビで大人顔負けにプレゼンする子供たち、


もはや選別は始まっているのだ。

情報をうまく使いこなせない人間は淘汰されていく。


これから先の人類はどこに進むのだろう。

 

女性の「優しい人が好き」ってどういうこと?

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「優しい人」が好き。


女性が「好みのタイプ」を問われたときに答える、

最もポピュラーな回答の一つだ。


これを言われたとなれば、

よほど穿った考えの持ち主でない限りは、

少なくとも誰もが「表面的には」うなずくことになる。


批判する要素がないのだ。


角が立たないという意味で、

この上なく理想的な回答だ。


「穏やかで、包容力があって、暴力を振るわない」


それを「優しい」と定義付けるならば、

「優しい人が好き」


そう答える女性は、

多くの場合で「身体的優位」に立つ男性に対して、

「恐れ」を感じているのだろうか。


「人生におけるリスクヘッジ


「結婚」の目的として、

その重要さは増してきている。


特に近年は「婚活」が身近なものとなり、

条件で選んで選ばれる。

盲目的なゴールインは少なくなったように思う。


その意味で「経済力」と並び、

「優しい」ということは、

リスクヘッジの面で大きなアドバンテージとなるのだろう。


だけれども、

果たして「優しい」という言葉が意味するものは、

男性の「身体的優位」に対するリスクヘッジだけなのだろうか。


甚だ疑問を感じる。

 

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ある記事を読んで、非常に納得したのだけれども、

「平和」であればあるほど「身体的優位」の価値は下がる。

即ち「男性」の価値は下がるのだ。


逆に女性の「性的魅力」


それを獲得するために男は女性に媚びるのだから、

ある意味では男性に対する女性の「身体的優位」だ。


それは「平和」であればあるほどに価値を上げる。

即ち「女性」の価値は上がるのだ。

 

今は頭脳労働が一般的になったけれど、

過去の戦争を見れば一目瞭然だろう。


「経済」なんてものが破綻したときに、

生活の糧を獲得するために必要なものは「身体的優位」だ。


だから古来より「男尊女卑」なるものが横行してきた。


マンガ化が話題になった、

『戦争は女の顔をしていない』

そのタイトルがそのまま象徴している。


配慮もなく女性は男性と同じ役割を強いられる。

ある意味では「ジェンダーレス」


戦地では生理用品など支給されないものだから、

下半身血だらけの軍服を着て男と共に行軍する。

「軍服はいつもパリパリだった」って、

そんな生々しいシーンもあった。

 

それでも健気に従軍する女性たち、

前線に参加することも少なくなかったようだ。

時代が「身体的優位」を求めていたのだ。


だけれども、

今はそれが求められていない。


まだまだ不十分という声はあるだろうけれど、

女性の「社会進出」を国策として掲げ、

女性の「経済的自立」および「社会的配慮」は進んでいく。


「身体的」のみならず「経済的」にも、

男の優位はどんどん消えているのだ。


だから「優しい人が好き」


言葉は変わらなくても、

その意味は変わってきているんじゃないかな。


それってさ。

男性の「身体的優位」に対する、

女性の「潜在的な恐れ」からくるものではなく、

愛玩動物」のそれに近いのかもしれない。


「癒される」ってやつ、


ドラマ『私の家政夫ナギサさん』


飛び飛びで見ていただけだから多くは語れないけれど、

このドラマの結論がまさにそういうことなんじゃないかな。


もちろんトラウマを抱えていて、

男性の「身体的優位」を恐れる女性もいるだろう。


だけれども、

「優しい人」=「癒しを与えてくれる人」

もはやそれが多数派のように感じる。


「優しい人が好き」


だから男性諸君は、

その意味をはき違えると痛い目を見ることになる。


女性の求める「優しい人」

それになるためには「積極的な奉仕」が必要なのだ。


私よりも年収が高くて、

私以上に家事をこなしてくれて、

落ち込んだ時は私を優しく包み込んでくれて、

いつも穏やかで私を支えてくれる人、


そんな「超人」がきっと、

現代の女性が求める「優しい人」なのだ。


男女間での需要と供給のバランスは崩れるばかり、


加えて「男」の価値は下がり、

「女性」の価値は上がっている。


社会の要請に従って、

男は「超人」になるしかないのかな。


結局、

私はいつまでも「ジェンダー」にこだわっている。


女性に対する敵意はだいぶ収まったけれど、

こだわりたいうちは、

まだまだこだわっていればいいのかな。

 

~芦田愛菜さんに学ぶ~「信じる」ってこと

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映画『星の子』の完成イベントで、

芦田愛菜さんが「信じる」について問われて、

その回答が秀逸だった。


「裏切られたって言う人がいるけれど、

それは相手の見えなかったところが見えただけ、

それも含めて相手なんだって思って受け止める、

そんな揺るがない自分がいるってことが『信じる』ってことだと思う」


続けて、

「揺るがない軸を持つことは難しい。

だから人は『信じる』と口にして理想にすがりたがる」


16歳でこんなことが言えるのか。

素直に感嘆した。


もはや「愛菜ちゃん」ではない。

芦田愛菜さん」だ。


「人生を一度やり直している」

「本当は見た目の若すぎるおばあさんなんじゃないか」

異世界から転生しているんじゃないか」


そう揶揄されるのも納得だ。


『星の子』


原作は今村夏子さんの小説だ。

私も半年ほど前に読んだ。


婚活で出会った女性とのデートで寄った本屋、

その最中に購入した本だ。


詳しくは控えるが、

内容はかなりぶっ飛んでいるけれど、

妙にしっくりくる設定だ。


「幸せは人が決めるものではない」

そんなテーマの作品だ。


西加奈子さんの『サラバ』

どことなくテーマが似ている。


「自分になる」


幼少期をさかのぼり、

その葛藤を鮮やかに濃淡使い分けて描いている。

そんな作品だ。


話を戻そう。


「信じる」ってこと、


私にとっては「人を道具として見ない」ということだろうか。

「使い捨て」ではない。

「誠意をもって接する」ということ、

その接し方が「信じる」ってことだと思う。


だけれども、

相手が私のことを「道具」だと思っていれば、

「裏切られる」ことになる。


その時に「芦田愛菜さん」論だ。


「相手の見えなかったところが見えただけ、

それも含めて相手なんだって受け止める」


相手は「脆く不完全で血の通った人間」

「生身の弱い人間」なのだ。

 

私の「人を道具として見ない」論につながる。


誰かに「裏切られた」ところで、

その人との今後はともかくとして、

我々は「人を信じること」を辞めるわけにはいかないのだ。


思いもよらず、

自分が誰かを「裏切っている」こともある。

「期待を」という意味では尚更あることだろう。


人は誰かに期待し、誰かから期待され、

それを裏切り、裏切られる。


「裏切られた」と嘆いたところで、

何の解決にもならないのだ。


それでも「信じる」ということ、

「信じ続ける」ということ、

それは他の誰でもない自分自身の問題だ。


おそらく芦田愛菜さんも、

そういうことが言いたかったのではないか。


「ドキッ」としてしまう。

運命を感じてしまうな。


もしかしたら、

私の運命の人は芦田愛菜さんか。


いや、待て、

年齢的に犯罪だ。


人生はいつだってすれ違い。

「いつもちょっとだけ間に合わない」のだ。


冗談なので悪しからず、

警察への通報は勘弁してほしい。

 

セルフハンディキャッピング

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いわゆる「予防線を張る」というやつ、


「あまり勉強できなかったんだよねー」だとか、

「これ苦手なやつやー」だとか、

「私バカだから」だとか、


失敗したときになるべく傷つかないように、

あらかじめ「うまくいかなくても仕方がない」って、

そんな理由を用意しておくのだ。


とても一般的な自己防衛手段だ。

気が付くと私もしていることがある。


だけれどもこれって、

「なにがなんでもやる」って、

大事な時に持つべきそんな覚悟、


それを阻害することにならないのかな。


私の場合は、

「私の恋愛がうまくいくはずがない」って、

「結婚できなくても仕方がない」って、

「今まで経験を積んでこなかったのだから」って、

基本的にはそう考えている。


去年はガムシャラに動いたけれど、

15人ほどと会って、

先に進みたいと思える人とは一人しか会えなかった。


そしてその人とは、

毎日メッセージをやりとりして、

向こうから電話までかかってきて、

デートでは手をつないて、


「うまくいっている」

私はそう思っていたけれど、

突然の「ごめんなさい」

キープされていただけだったのだ。


他にも、

マリッジブルーの寂しさ埋め合わせ要員」にされたり、

コミュニティ内で二股をかけられたり、

ここ4年ほどでたくさん傷ついた。


「セルフハンディキャッピング」


だからそれらを「予防線」にして、

「私の恋愛はうまくいくはずがない」って、

基本的にはそう思っている。


だからアプローチのようなものを受けても、

余程私の気持ちが固まらなければ動かないし、

そのくせ、それに悶々としながら生きている。


女性から「確かな言葉」はくれないのだ。

ずるいよ。


結局、

私は関係を先に進めたくないのかもしれないな。


「現状維持」に「慣性の法則」が働いて、

なかなかそこから抜け出すことができない。


「セルフハンディキャッピング」


体のいい言い訳だ。


変にアプローチをされる機会が多かったものだから、

理想ばかりが高くなって、

心が動かなくなっているのだ。


私は私を傷つけないために、

いつだって「予防線」を張りながら生きている。

それでいて悶々としているのだ。


どうしてこうなってしまったんだろうね。


何とも惨めで、

何とも浅ましい。


「きっと前世で酷い女遊びでもした報い」なのだ。

だから今回の人生はそういう人生なのかな。


そうやって「前世」に理由を求めることもまた、

「セルフハンディキャッピング」なのだ。