「面白いな」と思ったこと、
私に大した知識がないことを聞かれたときに、
あくまでも一般論で「それらしいこと」を答えてみる。
村上春樹氏の小説のように、
知的ぶった言い回しならばなおさら良い。
すると「あたりまえやんけ」って思うような答えなのに、
頭の良い人は「何か意図がある」と思い込んでくれて、
「こういうことですよね」って勝手に論理展開を進めてくれるのだ。
そうなると私は「それらしく」
相手の言ったことの言い回しを変えて反復するだけ、
最後に「そういうことだと思います」とでも言っておけばいい。
断定は決してしないのが味噌だ。
多くの疑問に対してさ。
人はある程度答えを持っているのだ。
「誰かに話すこと」でそれを後押ししてほしいだけ、
「頭の良い人」
それを定義付けるのは難しいけれど、
何でもかんでも物事を深く考察することを生きがいにして、
プライドが高く「わからない」とは言えない。
そんな「自分の頭で物事を考えて生きている素晴らしい人」とすれば合点がいく。
ちょっとした刺激を与えるだけで、
自分の頭で考えて答えにたどり着く。
自分の力でたどり着いただけなのに、
私に相談して良かったって思ってもらえて、
また相談が舞い込む。
ある種の「コンサル」なんて、
きっとそんなお仕事なのだ。
穿った見方をされてしまうと、
おそらく「対価に見合った働き」はしていない。
だけれども、
「聞く力」
そういうものを提供しているのだと考えると、
まんざら「無価値」とも言い切れない。
要は「課題解決」につながればいいのだ。
それに「自分でたどり着いてもらった」方が、
相手にとっても望ましいことだろう。
私は「人から何かを聞かれた」とき、
また「人に何かを聞く」とき、
自分のナレッジにすることを心掛けている。
そして相手のナレッジになれば、なお良いと思っている。
そうやって「Win-Win」の関係を増やしていく。
「人間関係」ってそういうものなんじゃないかな。
ブログだってそうだ。
私は皆さんのブログから多くを学んでいるし、
私のブログが誰かの役に立てばなお良いと思っている。
コンセンサスがコンプライアンスで、
ガバメントがアバンチュールしているのだ。
「ギバー」(=Giver 与える人)
そういう言葉が流行っているけれど、
「ギバー」になろうとしてなるのではなく、
自然と「ギバー」であるように、
人格を磨くことが大事なんじゃないかな。
とまあ、
そういうことにしておけばいい。
「不誠実さ」に理由をつける。
そうやって人は生きているのだ。
小難しいことを並べて、
簡単に書けることを難しく書いて、
「それらしい」結論でまとめる。
お察しの通り、
言い分けがましいこの記事自体が、
私の「自己肯定作業」だ。
「なるべく人を道具として見ない」
そんな理想を掲げているくせに、
私は「マキャベリスト」の気質が強いのかもしれない。
なるべく「楽に生きようとする」
そんな自分が嫌いではないのだから困ってしまう。
私がブログに書いていることは、
どこまで本気なのだろう。