それでは人間がダメになって、
人類は滅亡してしまう。
だからこそ苦しむのだ。
この苦しみはいわば人類全体の業なのかもしれない。
「苦しみ」の先にあるもの、
例え、それが大したことのないものであっても、
仰々しく飾り立てて、
自ら「大したもの」に仕立て上げるのだ。
そうしないと人生はやっていられない。
手に入れた少しばかりの成果を、
まるで「人生の宝」であるかのように思い込むのだ。
そうやって人は、
人生に折り合いをつけていく。
先日、後輩くんが言っていた言葉、
「僕は自分はとても恵まれているな」
そう思いながら生きていますよ。
裏を返せばあまり向上心がないということですが、
「今」が幸せだと思っていますよ。
それを聞いた私は、
「こいつはすごいな」と思った。
私はいつだって欠けた部分にばかり囚われて、
「ダメだ、まだダメだ」って、
理想ばかりを追い求めている。
だけれどもそれって、
「幸せ」になれない人種の典型なのかもしれない。
自分への期待値が大きすぎるのかな。
もっと楽に生きればいいのに、
客観的に自分を見てそう思うけれど、
どうにもそれができないのだ。
傷ついた分だけ理想は高くなる。
「こんなに苦労したのだから幸せになれるはずだ」ってさ。
人は懸けた時間と労力に比例して、
その対象に執着するようになる。
だからどんどんハードルばかり高くなって、
体は年とともに劣化していく。
何とも惨めなものだ。
もはや私の中での需要と供給は、
意味をなさないものになっていて、
枯渇した井戸から水を汲もうと躍起になっているだけなのかな。
そうこうしているうちに、
私の心もカラカラに干からびてきたようだ。
もはや「誰でもいいな」って、
どんどん悪循環に陥っている気がする。
そうやって極端にハードルを下げたところで、
うまくいきそうになると、
また無意味な自問自答が始まるのだ。
そうこうしているうちにまたチャンスを逃す。
そしてまた「誰でもいいな」って、
結局は誰でもよくはないのだ。
それならば0か100かで生きるしかないな。
「一人で生きること」
それもそろそろ考えなければならないのかもしれない。
結局私は、
自分が納得する形でしか先に進めない。
だから私はこう思って生きるしかないのだ。
簡単に「幸せ」になれるはずがない。
そうやってまた、
「努力」に依存して、
そこに存在意義を求めて、
ゾンビのように「幸せ」求めて彷徨うのだ。
その先にあるもの、
それを信じ続けるしかない。
そういうゾーンに入ってしまった。
あとは広大に広がる宇宙の中で、
奇跡的にぶつかる相手との出会い、
そんなものに期待して、
自分の生き方を貫くしかない。
「幸せ」と一口に言ったところで、
その形はひとつではないのだから、
少なくとも私は今、
自分のことを「幸せ」だと思えていない。
それが病理なのだ。