「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「ステップアップ」のチャンスから逃げたときに感じる「安堵」

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「チャンス」が転がってきた時に、

その「チャンス」を目の前にして先に進むことができなかったのに、

「悔しい思い」よりも「安堵の気持ち」が勝る。


私にはそういう経験が何度かある。


もちろん臆病な気持ちが顔を出して、

先に進むことを躊躇した結果なのだろうけれど、

「希望」していたことなのに、それが手に入らずに安堵する。


「私の人生がうまくいくはずがない」って、

私は根っからのペシミストなのだろうか。


よく覚えているのは転職活動をしていた時のこと、


高倍率を突破して、希望していた企業から最終面接の通知が来た。

 

しかし、その日はどうしても仕事を休むことができず、

企業に何とか日程を変更してもらえないかと頼むも、

「他の候補者は全てその日を了承している」との理由から、

それが受け入れられることはなかった。


結果として私は、離れようとしている現職に義理立てする形で、

そのチャンスをふいにすることになる。


だけれども、その時にどこか「安堵」を感じていた。


最終面接に臨み「不採用」のレッテルを貼られることを恐れていたのか。

それとも環境が変わること自体を恐れていたのか。


それはわからないけれど、

望む将来に向けてのチャンスを失って「安堵」していたことは確かだ。


このような経験は一度や二度ではない。

こと、恋愛についてはいつも同じような気持ちになる。


うまくいきそうな女性との出会いを重ねていくうちに、

どこか不安な気持ちが生まれてくる。

一応は望む形にもっていこうとアプローチを続けるも、

うまくいかなくなると途端に「安堵」が顔を出す。


「私は女性との将来を希望していなかったのか」

 

何度も自問自答するけれど、

どのような切り口で考えてみても、

私はそのことを希望しているし、

それに向けて努力を重ねていた。


婚活で唯一、心惹かれた女性とうまくいかなかった時も、

同じように「安堵」が顔を出した。


そのたびに私は「不思議な気持ち」になるのだ。


例え望む将来であっても、

人は環境の変化にストレスを感じる。


私は「ライフステージを進めたい」と願っているくせに、

変化を恐れているのだろうか。


「何が何でも」という気持ちがない。

「良いところまでいくのにうまくいかない」


もちろん掴み取ったものもあるけれど、

これまでの私の人生はそういうことが多かった。


もしかしたら「うまくいかなくても仕方がない」って予防線を張っているうちに、

その予防線のほうに気持ちが引っ張られてしまうのかな。


ダメージを軽減するために、

うまくいかなかった時のことばかり先読みしているうちに、

そちらのルートに乗っかってしまうのかな。


そうやって「うまくいかない自分」に浸ることで、

悲劇の主人公という「居場所」を求めているのだ。


環境は何も変わらなくても「居場所」を手にすることができる。

「頑張ったアピール」までできるおまけつきだ。


私はそうやって先に進むつもりもないくせに、

「頑張ったけどダメだった自分」を演出して、

「臆病な自分」に気が付かないふりをしているのだ。


いつだって選ばれない。

それは私が私に期待していないのだから当たり前のこと、


何となく印象は良さそうだからって、

最後の数人に選ばれることはあっても、

最後の一人に選ばれることはないのだ。


私が選ぶ方だったとしても私のことを選ばないだろう。

 

私が良いところまで行ってうまくいかないのは、

偶然ではなく必然なのだ。

 

何とも厄介な性質を持ってしまった。

手放すためにはハナから諦めるしかないのだろうか。

それとも、うまくいくまでやり続けるしかないのだろうか。

 

私は私の人生に期待しているのだろうか。

それとも、これ以上先に進みたくないと思っているのだろうか。

 

一生、独り身でいた方がリスクは少ない。

苦手分野に挑戦する必要もない。

だけれども、欠落感を感じながら生き続けることになる。

 

自分が何を望んでいるのかわからないな。

 

ラーメン屋の店員さんが「前田敦子」だった話

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緊急事態宣言の前日だっただろうか。


普段はおとなしく自粛している私だが、

やむにやまれぬ用事があって繁華街へと足を延ばした。


「どうせだから」とちょっと遅めのランチをしようと、

お目当てのハンバーグ屋さんにたどり着くと、

「マジか!」と思うほど並んでいる。

自粛の力を信じた私の見当違いだったようだ。


しかもカップルばかりだ。

気分を害した私は「やめよう」と別の店を探す。


途中でアプリで知り合った子とデートに使った店の前を通り、

またもや気分を害する。

 

久々の繁華街だからか交感神経は優位になる一方だ。


なんだかイライラしてきたので帰ろうかとも思ったが、

昔一度だけ言ったことのあるラーメン屋を思い出して足を運ぶ。

確かカップ麺を出していたほどの有名店だったが並んではいなかった。

「ちょうどいい」と思った私は店に入ることにした。


活気のある店内、

私が辺りを見回すそぶりをしただけで「注文ですか?」と駆け寄る店員さん、

とても感じのいい店だった。


美味しいとんこつラーメンに舌鼓を打ち、

会計を済ませようとレジへと向かう。


金額を確認して、支払いは「Suicaで」と伝えると、

ふいに目に飛び込むネームプレート、


そこには確かに「前田敦子」と書いてあった。


「もしかしてあれか?『モニタリング』とかそういうやつか?」だなんて、

淡い期待に胸を高鳴らせながら店員さんの顔を見る私、


すると、

一目でわかるくらい「同姓同名の別人」だった。


「お名前すごいですね」だなんて言葉が喉元までせり上がって来たけれど、

「おそらくこの人は何十回も名前のことを言われているのだろうな」と理性が働き、

声帯を震わせる前に飲み込む。


あだ名はおそらく「あっちゃん」だ。


「ピッ」と会計を済ませて、

「ご馳走様でした(あっちゃん)」と伝えて店を後にする私、

カッコ書きのところは「心の声」だということは書くまでもないだろうけれど、念のため書いておく。


「同姓同名」


そういえば、新卒で就活をしていた時に同じグループ面接を受けた子の名前が「小倉優子」だった。

終わった後にそのグループで食事に行ったけれど、案の定、あだ名は「ゆうこりん」だった。

 

「同姓同名あるある」なのかもしれない。

昔のことを思い出してしまったな。


ラーメンとサイドメニューに「替え玉」を含めて1330円、


私にしては贅沢な一食になったけれど、

予定していたハンバーグよりは安く済んだ。


しかもこのような面白い「ネタ話」のおまけつきだ。


前に伊沢拓司さんが自動車免許の試験に落ちて、

そのことを安い受験料でネタが一つ買えたと言っていたけれど、

今回の私はまさにそれに当たるかもしれない。


ラーメン店の「前田敦子」さん、


美味しくいただきました。

ありがとうございました。


普段とは違うことをしてみると、

「面白いことがあるのだな」と思った。

 

「孤独」の本質を探る

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自分がどうしようもなく「無価値」に思えてくる。

特に自粛となってからは「真面目な人」ほど孤独を感じやすいのだろう。


「言いつけをしっかりと守る」


そういう人生を歩んできたものだから、

社会の方針に対して従順なのだ。


「少しくらいは大丈夫」って考えでさ。

街に溢れている人たちの姿を見ては憤りを感じて、

反面、しばらく友人と会っていないものだから、

改めて予定を入れることも億劫に感じる。


「予定がないこと」を、「人生が先に進まないこと」を、全部コロナ禍のせいにしてさ。

「今は時期が悪い」だなんて口癖のように宣う。


人の粗ばかりを探すことで、

何も行動を起こさない自分を慰める。


「おとなしくしている自分」は正しいんだって、

「楽しそうなあいつらは非国民だ」って、

そこに「居場所」なんかを求めてさ。


結局は臆病なだけなんでしょ。


本当に信念をもって自粛しているならば、

周りのことなんか気にしないはずだ。

こういうご時世でも自分の「居場所」を見つけて楽しく過ごしているはずだ。


行動が制限されていたってさ。

「何も変えないこと」を選択しているのは自分自身、


「孤独」ってものはさ。

「行動して失敗した先にあるもの」


もしかしたらあったはずの「幸せ」に思いを馳せて、

失敗した自分を許せずにいるから「孤独」を感じるのだ。


何も失っていない人は「孤独」を感じないし、

誰かと比べない人は「孤独」を感じない。


失敗したかもしれないけれど、

一度は立ち上がって「挑戦した人」にしか、

「孤独」ってものは訪れないんじゃないのかな。


「寂しさ」「惨めさ」「喪失感」

そのどれもが「挑戦者」であった証、


だから存分に噛み締めればいい。

そこから出てくる「苦い汁」の味を存分に味わえばいい。


結局は「孤独」と言うものを飼いならさないと、

「満たされること」などないのだ。


誰かの評価に怯えながら生きて、

誰かと比べて劣っていることに惨めさを感じて、

誰かと一緒にいないと不安で不安で仕方がなくて、

いつまでも「孤独」に怯えて生きるようになる。


だから「孤独」を強く感じている時こそ、

「孤独」を飼いならすためのチャンスなのだ。

 

その日暮らしでチャランポランに生きている人達よりも、「孤独」を噛み締めながらもその中に「居場所」を見出した人の方が魅力的に映る。

 

せっかく生きているのだからさ。

どこまでも主体的でありたい。

「孤独」であることに対しても主体的でありたい。


ネガティブな感情にばかり引っ張られないで、

長い目で見て人生を謳歌したいものだ。

 

心は「足りないところ」に引きずり込まれていく

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心のどこかに穴が空いていると、

それが些細なものであったとしても、

まるでそれがブラックホールであるかのように、

思考はその「空いた穴」に引きずり込まれていく。


これを「マインドブラックホール理論」とでも名付けようか。


足りないところにばかり目を向けて、

満たされているところは目に入らない。


人は「都合の良い生き物」だから、

恵まれていることが続くとそれを当たり前だと思うようになる。

 

最初は幸運に感謝をしていても、

いつしかデフォルトに書き換えてしまう。


そして、またどこか「足りないところ」を探し出すのだ。

それを見つけては「満たされない」「満たされない」って、

まるで自分が悲劇の主人公であるかのように振舞う。


時には自ら心を針でツンツンとでも突きだして、

そこに空いた「穴」を、あたかも元からあった穴だとでも主張するかのように喚きだす。

 

「満たされない」「満たされない」って喚き出すのだ。


ご丁寧に「言葉」にはせず、

「嘘はついていない」だなんて予防線まで準備して、

「満たされない」「満たされない」ってさ。


周りの関心でも惹きたいのだろうか。

それともそこにしか「居場所」がないのだろうか。

 

悲劇の主人公なんてものは、

努力しなくても望めば簡単に手に入る「居場所」だからって、

何もないよりはマシだから「私にはこれしかないの」って、そこにしがみつくようになる。


まるでそれが「自分の価値のすべて」であるかのように、

「満たされない」「満たされない」って、

「幸せ」探して彷徨うゾンビのようだ。


手の届く範囲でばかりいくら探したところでさ。

もうそこは随分前から何度も探しているはずだ。


何もしていないと不安で押しつぶされそうだからってさ。

何度も同じところばかり探すふりをして、

むやみやたらに時間を浪費する。


一般的に人は「時間を費やしたもの」に対して執着するようになるから、

心に空いた「穴」はどんどん勢力を拡大して「思考の大半」を吸い取っていく。


「自分と向き合っている」ようでさ。

「自分と向き合ってなんかいない」んだよ。

 

ただただブラックホールに吸い寄せられているだけ、


思考の大半を吸い取られて卑屈になっている暇があったらさ。

少しは今までとは違う体の動かし方をしてみればいい。


同じように生活して、同じように思考を縛られて、

そうこうしているうちに人生は終わってしまう。


パラダイムシフトは自分で起こさないといけない。

奇跡を待っていたところで多くの場合、奇跡は起こらないのだ。

 

結局は「自分」になりたかったら、

他の誰でもない「自分」になりたかったら、

そのためにとことん努力をしなければならない。

 

何でもいいから「居場所」が欲しいだなんてさ。

そういう了見だからいつまで経っても満たされないのだ。

 

少しでいい。

少しずつでいい。

 

行動を変えてみよう。

望む方向から遠ざかってもいい。

日常を変えてみるのだ。

 

「代わり映えのしない日常」

 

そこに嫌気がさしているくせにさ。

何も起こそうとしないで、誰かが変えてくれるのをじっと待っている。

 

お高く止まっちゃってさ。

「自分は人一倍頑張ってきた」ってさ。

過去の栄光にばかりしがみついてさ。

自分で何かを掴み取ることを忘れてしまったのかな。

 

「満たされない」ってそれは当たり前だ。

 

現れるかもわからない誰かに頼ってばかりで、

変えてくれるかもわからない出来事を待ってばかりで、

自分の人生を人任せにしているのだから、

 

どこまでいっても、いつまで経っても、

自分の人生の責任は自分で取るしかないのだ。

組織の「自浄作用」を働かせるために必要なこと

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「属人化」の進んだ組織、

誰かがいないと業務が進まない。

意思決定もできない。


各セクションにおいて、

人的リソースはギリギリのところで運用しているものだから、

自然と「誰か」にしわ寄せがいくのだ。


そしてその「誰か」の内には、

「不満」がどんどん溜まっていく。

 

「こんなにやっているのに」って、

口には出さなかったとしても自然と組織に対する要求は高まる。

そのケアをするのがマネージャーの役割だ。


そこに手を入れなければ、

「うまく回っている」ように見えたところで、

「うまく回ってなどいない」のだ。


何かの拍子にヒューズが飛んでしまったら、

もはや修復不可能、

取り返しのつかないことになる。


だから「リスクヘッジ」が必要、

余裕がなかったとしても組織として「保険」をかけておく必要があるのだ。


余程の天才であれば話は別だけれども、

一人の頭で考えることには限界があるし、

人間に手足は2本ずつしかない。


それに「人間」というものはどうしたって、

「バイアス」をかけて物事を見る。


だから「少ない人たち」が多くのことを抱え込んでしまったらさ。

そのこと自体が大きな「リスク」なのだ。

 

「属人化」


そうなってしまったらブラックボックスはどんどん増えて、進む方向が誤っていたとしても、間違っていることにも気が付かない。


ティール組織」というものが幅を利かせてきたけれど、それは社会がこの「リスク」を実感している証拠なんじゃないのかな。


ティール組織」


「立場」=「役割」であって、

それは「上下関係」ではない。


それぞれが「手足」であり「頭」

『HUNTERxHUNTER』に登場する「幻影旅団」と同じ形態だ。


「リーダー」ってのは偉いんだってさ。


本人にも気負いがあるし、

周りもそういう目で見るから、

ともすればそう思われがちだけれども、

実際のところ決してそうではない。


ただ「全体を見て指示を出す役割」というだけだ。


その「役割」自体が慕われるべき道理もなければ、

その「役割」に委縮して為すべきことを為せないなどもっての外だ。


勘違いしてはならない。

「それぞれの役割」を的確に果たすからこそ慕われるし、評価される。


そのことを理解して、

それぞれが己の役割を果たすことに時間を割いていれば、

組織には「自浄作用」が働くんじゃないのかな。

 

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「頭」がつぶれたとしても、

次は別の手足が「頭」になる。


そのためには常に全体を意識して、

その上で「手足」が自分の役割を自覚する必要がある。

1を話せば10伝わる。

規則とか、慣習とかそんな薄っぺらいものではない。

全員が目的を共有しているのだ。


そういう組織は強い。


「やらされ根性」で続けたってさ。

「お金だけもらえればいい」って壁を作ったってさ。


働く中で自分に「積み上がるもの」がなければ、

その時間はもったいないんじゃないのかな。


きっとそういうところで差がつくんだよ。


それに気が付かないで「報われない」ってさ。

愚痴を吐きながら組織にしがみつく惨めな人生、

 

今はそれでいいかもしれないけれど、

将来「居場所」がなくなって余計惨めになる。

 

よく聞く言い訳で「社畜になりたくない」ってのがあるけれど、「社畜にもなれなかったらどこに居場所はあるの?」

 

なにも体を壊してまで働けというつもりはないけれど、権利を主張するならば、とことん仕事に打ち込んで、実力をつけてからでないと受け入れられるはずがない。

 

どうせ腰掛けのつもり、

長いこと社会で勝負する気なんかないって、

それで良ければ構わないけれど、

そうじゃないならばさ。


手足であっても「頭」として、

組織の進むべきビジョンを描きながら働くしかないんじゃないのかな。

その積み重ねの中で力はついてくる。


そして「組織」は聞く耳を持たなければならない。

それぞれの視点からしか見えないものを紡いで形にする。


プレイヤーとしての業務に追われることなく、

そこに注力できる立場が必要だ。

人的リソースの配分を間違えてはならない。


目先の利益に囚われて日常にばかり投資していたら、

将来に対する責任は誰がとることになるのだろう。


結局は先延ばしにして誰も責任を取るつもりがない。


国も社会もうまくいかないと感じているのであれば、

そこに「病理」があるんじゃないのかな。


これからどれだけの人が職を失うことになるのだろう。

もちろん私も含めてどうなるかわからない。


結局、自分の将来は、

自分で責任を取るしかないのだ。

 

「根拠のない自信」の出所

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どんなに苦しい状況でも、

「いい方向に向かう」と信じて生きている人は、

ある意味では「自分の人生を愛している」のかもしれない。


「根拠のない自信」


人は「経験を信仰する生き物」だから、

これまで培ってきた成功体験、


それを確固たるものとして大事にしている人は、

それが土台に鎮座されていて、

大きな揺れがあったとしても、

その衝撃を緩和してくれるのだろう。


「成功習慣」としてよく目にするけれど、

一日の終わりにはその日にあったポジティブなことを思い出して、

自己肯定感を高めてから就寝するといいらしい。


一種の自己暗示だ。


「自分の人生はうまくいっている」

「自分は人生をコントロールできている」

「今日も一日これだけ人生が前に進んだ」


そうやって「幸せな一日」を演出することで、

人生に意味があるように思えてくる。


大した成功体験でなくてもいい。


人は「できなかったこと」ばかりに囚われてしまうから、

敢えて「できたこと」にフォーカスすることで幸せを感じるのだ。


もうさ。

なんでもいい。


なんでもいいからさ。

「満たされている」と感じたい。


「渇く」

とにかく「渇く」のだ。


どんなに一日の終わりに「幸せな人生」を演出してみても、

この「渇き」を潤してくれることはない。


「惨めさ」を感じながら過ごして、

「惨めさ」で夜中に目が覚める。


進む見込みのない関係だったのに、

唯一繋がっていた女性とのやり取りを断ち切っただけで、

こんなにも「惨めさ」が増すとは思わなかった。


いつだって、ないものねだり、


どれだけ「自分らしさ」なるものを探求したところで、

誰かと比べてばかりいるからさ。


周りから取り残されたような欠落感を感じて、

そのポッカリと空いた穴に魅了されて、

その穴こそが自分なんだって、

そのに妙な使命感なんか感じちゃってさ。

 

悲劇の主人公を気取ることが生きがいになって、

足りないところばかりを注視するようになる。


「先のこと」ばかり考えているくせに、

その「先のこと」に希望を見出すことができない。

 

なんのために健康管理をしているんだろうね。

なんのためにお金を貯めているんだろうね。


「幸せ」ってなんだろうね。


「今の自分を肯定できていること」なのかな。

「自分の将来に希望を持ち続けられる」ってことなのかな。

それとも、その両方なのかな。


自ら「幸せな人生」を演出するために、

いくら「自己暗示」を続けたところで、

それを「自己暗示」だと思っているうちは暗示にかからないのだろう。


「こうすれば幸せになれるよ」って言われたら、

無条件にその言葉を受け入れられるくらいに素直であれば、

こんなに悩まなくてもいいのだろうか。


それはそれで別の悩みが出てきそうだけれども、


「根拠」なんて全くなくていいから、

心の底から「大丈夫だ」って、

自分の将来に希望を持ち続けられるようになりたい。

そうじゃないと、あまりにも辛いから、

 

もう悲劇の主人公を気取るのには飽きた。

 

無職だった友人に「飯は驕った」けれど「タバコ代は貸さなかった」話

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随分と前の話だ。

私が社会人になって何年も経っていなかった頃だと思う。


高校の同級生だった友人が仕事を辞めた。

メンタルをやってしまい精神科に通っていたらしい。


とりあえずは実家に戻ったので生活はできていたみたいだけど、

お金に困っているらしく外食するととにかく「一番安いもの」を頼む。


ファミレスに入って私は普通にランチをするのに、

昼を食べていない友人はドリンクバーとポテトだけだったりした。

見かねた私は「今日は出すから飯食いなよ」といって飯を奢った。

そういうことが何度かあっただろうか。


行く当てもなくぶらりとしながら、

「世界の正体」やら「人間の本質」について語り合う。


その友人は生きている日数よりも多くの冊数の本を読む「読書家」だったから、

「世界の底」が見えてしまい絶望していたのかもしれない。

妙に厭世的なペシミストだった。


食事に興味はないくせにタバコだけはやめられない。


会うたびにふかしていた。

受動喫煙による直接的な健康被害を受けるからやめてくれ」だなんて、

冗談交じりに話したりしていたけれど、

「金がない」と言いながらもタバコを吸い続ける彼に私は違和感を感じていた。


そういう感情があったものだから、

タバコが切れて「金を貸してくれ」という彼に対して、

私はどうしても貸す気にはなれなかった。


「ちゃんと返すから」とせがむ彼、


飯を奢ってくれるくらいだから、

「お金を貸す」ことくらいなんでもないと思っていたのだろう。


何度頼まれても断る私、

「俺が返さないと思ってるんでしょ」との一言にめんどくさくなった私は、

彼に1000円札を渡すとそのまま「好きにしろ」と言って帰った。


あの時の気持ちは何だったのだろう。


相手のことを思っての行為なのか。

それとも私のエゴだったのか。


彼とは色々あったけれど、

しばらく会ってはいないが友人関係は続いているし、

彼も就職して普通に働いている(少なくとも最後に会った時は)


今では条例による罰則の効果なのか、

歩きたばこはめっきりと蹴ったけれど、

10数年前はまだ寛容だったのかな。


タバコをふかしながら小難しいことを並べ立ててぶらぶらと歩く彼の姿、

ふと脳裏に蘇る。


私がまだ理想に燃えていた頃の話だ。

なんとも懐かしく思う。