「自意識」を手放したい

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30歳を過ぎてから、

私の身には何度か大きな変化があった。

 

パニック障害で「精神的」に死にかけて、

その数年後には病気で「肉体的」にも死にかけた。

 

その翌年には「謎の痺れ」のような症状に見舞われて、

いくら検査をしても「原因不明」と言われたこともあった。

 

「生きることの辛さ」

 

「生きること」ってこんなに大変なことなのだなって、

身をもって実感して生きている。

 

どんどん卑屈になっていき、

自分の存在価値を認めてあげられないからって、

「努力」を課すことで前に進んだ気になる。

 

自律神経はバカになって、

ストレス耐性は低くなって、

うまく動いてくれない体で生きるために、

生活をコントロールする。

 

日課はどんどん増えていき、

生活はどんどん雁字搦めになっていく。

 

「虚しさ」を埋めるために何かに勤しみ、

それでも「満たされないこと」から目を背けながらも、

視界の端ではちゃんと見ているのだ。

 

10歳以上若い子と接する機会が増えたけれど、

その「底なしの体力」や「人生に希望を持った目」

とても羨ましく思う。

 

かつての自分を思い出して奮起を試みるも、

体は思うように動いてはくれない。

 

私の体には随分と早く「老い」が来てしまったのだろうか。

 

「最近、夜中に目が覚めるのよ」と、

還暦を過ぎた母に言われたのだけれども、

「お母さん、俺は何年も前からそんな調子だよ」と、心の中でそう答える。

 

随分と「不便な体」になってしまったものだ。

 

「パフォーマンスを落とさないように」って、

私は私のことをコントロールしようとし過ぎているのかもしれない。

 

酒に強く、大食らい。

細かいことは気にせずに、理想のためにどんどん突き進む。

少し美化しているかもしれないけれど、

そんな20代を過ごした私、

 

30代になって衰えていく私、

どう頑張っても前と同じようには動けないのだ。

 

もちろん「手放したこと」は多いけれど、

それでも過去の自分を重ねて、

パフォーマンスを維持しようとルーティンは増えていく。

 

食事やサプリに運動習慣、

寝る前には念入りにストレッチ、

禁欲にまで手を出して頻度をコントロール

 

私は私を監視しながら生きているのだ。

 

だから「自分は努力している」って、

「報われるべきだ」ってさ。

そんな「自意識」を手放すことができないのかな。

 

結局、私は私のことで精一杯なのだ。

だから、誰かと先に進むことを望んでいないのかもしれない。

 

まずは「自意識」を手放して、

自然体のままで生きられるようにならないと、

 

「習慣化」だとかって言って、

いろんなものを肉付けし過ぎているのかな。

その過剰なコントロールが「自意識」に変わる。

 

だから楽しいはずのゲームをしていても、

無駄な時間を過ごしているように感じてしまう。

 

そして、それが「自己否定」の入り口になり、

自身の「無価値化」を助長する。

 

とにかく目の前のことに夢中になればいいのかな。

先のことなんか考えずにさ。

ゲームをしている時はゲームに夢中になれば良いのかな。

 

「デフォルトモードネットワーク」

 

私には思考の隙間が足りないのかもしれない。

もっと何も考えない無駄な時間が必要なのだ。

 

私は何かに駆り立てられながら生きている。

 

手に入らないものは手に入らない。

仕方のないことじゃないか。

 

私は私の人生に、

まだまだ大きすぎる期待をしているのかな。

 

2021年のゴールデンウィークはヤバい

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ひとまず5連休の最終日、

私は「何のために生きているのだろう」と感じる日々だった。

 

ランニングをした。

生活に必要な買い物をした。

実家に入り浸った。

ずっとゲームをしていた。

溜まっていたドラマを見た。

本を読んだ。

 

それくらいだ。

 

ご飯を食べたり、食べなかったり、

泥のように眠って、起きたら画面を見る。

起きている時間の半分くらいはデジタルに触れていたのではないか。

 

だから頭痛が酷いのだろうか。

「デジタルデトックス」が必要だ。

 

あまり体調は良くない。

ほとんど出かけてもいないのに、

いや、ほとんど出かけていないから、か。

 

自粛になればなるほどに、

デジタルに支配されていく。

私の生活はこれでいいのだろうか。

 

スマホゲームが元凶のようだ。

自粛が始まりテレワークで時間ができた1年ほど前から本格的に始めたゲーム、

気がつけば生活を侵食しているようだ。

 

何度か記事にしているけれど、

適度なゲームは「簡易なやりがい」を与えてくれる素晴らしいツールだ。

 

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だけれども、そこに「生きがい」を求めてしまったら、本末転倒になってしまう。

ケチな私は課金こそしないが、この連休で毎日5時間くらいはゲームをしていたのではないか。

 

冷静に考えるとヤバい。

そろそろ向き合わなければならないのかもしれない。

 

予想はしていたけれども、こんなにも不毛な連休になるとは思わなかった。

政府の方針に照らせば理想的な連休の過ごし方だったのだろうけれど、はっきり言ってヤバい。

 

コロナ禍が続いて疎遠になった友人も多い。

この連休は野球でも見に行きたいと思っていた時期が懐かしい。

 

なんだかヤバくないか?

去年のゴールデンウィークは、今年よりは充実していたように思う。

 

コロナ禍、

 

特に私のような独り身は、精神的に荒廃していく気がする。

この年で既に社会から孤立しているような気すらする。

 

意味もなく、やることもなく、実家に充電器とスマホタブレットを持ち込んで、ただゲームをしているだけでも、誰かがいることに安らぎを感じる。

 

自覚していたけれども、

私は「寂しがり屋」なのだ。

 

家賃は無駄だし、将来の予定もないし、

いつかは家を継ぐ予定なので実家に戻ろうか。

 

結婚は遠のくかもしれないけれど、今よりも余計に貯金して、親に対する責任を十分に果たせればそれでいいのかな。

でも、平均寿命まで生きるならば、どうせ最後は1人で長いこと生きていくことになるのか。

 

ライフステージをすぐに進めることはできないけれど、何か孤独を埋めるためのおすすめの方法があれば、是非とも教えてもらいたい。

 

感染はしていなくても、

もはやコロナ禍に蝕まれているな。

 

今日一日は有意義に過ごしたい。

 

【プロ野球2021】スワローズ新外国人野手の印象

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コロナ禍によって出遅れていましたが、

4人の新外国人選手がチームに合流しました。


投手のサイスニードとバンデンハークはまだ2軍で調整中ですが、

野手のサンタナとオスナは1軍の試合に出ています。


今回は野手である二人について書きます。

 


まずはドミンゴサンタナ


メジャーでは長距離砲として鳴らした外野手、

メジャー通算で77本のホームランを放ち2017年にはシーズン30本を放っています。


数字を見る限りは「三振」か「ホームラン」と言う選手かと思いましたが、

意外にも選球眼が良く、ボール球に手を出さないという特徴があります。


来日一本目のホームランは外角の球を完全に打ち損じましたが、

ライナー性の当たりはグングンと伸びてスタンドイン、

かなり珍しいレベルの変態ホームランでした。

 

打率は低いものの四球を選べるため、

OPSは悪くなく、ここぞでの一発があります。

下位に置くバッターとしては十分な怖さがあります。


しかし打席を見ているとインコースがあまり得意ではなさそうです。

この辺りを研究されてくると厳しいかもしれません。


あとは守備が怪しいのですよね。

凡フライを見失いそうになったり、中継に対して悪送球したり、

バレンティンよりも酷いのではないかというレベル、

これだと相当打ってもらわないと厳しいです。

 

直近の試合では3安打を放ち猛打賞、

パワーは恐ろしいものがありますので、守備に目を瞑っても使うくらいの打棒を見せるならば面白い存在です。


メジャーでの実績を鼻にかけることはなく、

自分から「ミンゴ」と呼んでくれと言うフレンドリーな選手なので、

頑張って欲しいところです。

 

 

続いてホセ・オスナです。


1軍に昇格すると7試合連続で安打を放ち、

プレーは全力疾走で5番に定着と活躍を続けています。


特筆すべきは苦手なコースがななそうなこと、

リストが柔らかくどのコースでも強い打球を返せているのですよね。

メジャーでの実績は少ないですが日本の野球にアジャストしている印象です。


守備も無難にこなしており、

ファースト、サードに加えて外野も守れるようです。

 

少し打率は落ちてきましたが、

今のところは際立った弱点はなく、

本人も日本の野球に適応しようと素晴らしい姿勢を感じます。


前を打つ4番の村上に対しては「こんな21歳がいるなんてすごい」と素直にリスペクトを表現しており、

村上自身も積極的にオスナにアドバイスを求めるなど、

とてもいい関係を築けているようです。


このまま踏みとどまってくれれば、

5,6,7辺りでサンタナと共に恐怖の下位打線を構築、

リーグ屈指の強力打線打線となります。


山田、村上が好調を維持する中で、

このオスナがここからのスワローズで「打のカギ」となりそうですね。

 


さて、今のところはオスナに軍配が上がりますが、

サンタナも打つ方で調子が出てきた印象です。

何より二人ともチームに溶け込もうと努力しています。


外国人が日本で成功する要件として、

「日本の野球を学ぼうとしているか」と言うことがよく挙げられます。

その点では二人とも素晴らしいのですよね。


ここからの活躍に期待したいところです。

 

5連勝から、ここ5戦で1勝4敗と少し落ちてきたスワローズ、

去年も一昨年も5月から崩れてきての最下位でした。

 

この5月を上位で乗り切れるかが重要となります。

投手陣には疲れが見えるので、新戦力の台頭は不可欠です。

ここで加入する外国人選手たちに5月を牽引して欲しいです。

900日から1000日に至るまでの変化

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昨日の記事は1000日連続更新のメモリアル記事としましたが、思いのほか長くなってしまったので、恒例の「100日間の変化」を自粛しました。

なので、今日は続編です。

 

900日は1月の下旬でした。

 

【900日からの変化】

・仕事が忙しかった。

・気持ちなく連絡を続けていた女性との連絡をやめた。

・またしばらくポルノを断った。

・ブログの検索流入が増えた。

・緊急事態宣言が明けてまた緊急事態宣言になった。

 

こうして振り返ると、ポイントで見ると状況は変わりませんが、中身のあった100日間だったように思います。

このような状況ですので、女性との接点は立ち消えて、いくつかあった友人からの紹介も、うやむやな状態です。

 

何も進まずに時だけが過ぎていくという感覚、

ドラマ『リコカツ』を見ていて印象的な一言がありました。

 

パートナー同伴のパーティに旦那である瑛太さんを連れて行けなかった妻の北川景子さん、

「私たち夫婦は互いの自主性を重んじているので、必要以上に干渉しないようにしています」と主張する北川景子さんに対して、

主催者である仲睦まじいセレブ夫妻の一言「素敵なお考えだと思いますが、ではあなた方ご夫婦は何のために結婚したのでしょうか」

北川景子さんが言葉に詰まったところで、予定をぶっちぎって遅れて登場する瑛太さん、

「遅れてすみませんでした」とすごい勢いで登場するや否や、妻の仕事の姿勢をベタ褒めする瑛太さんに対して、セレブ夫妻は「なるほど、お互いの大事な時には駆けつけるのですね」とにっこり、

 

「離婚」をテーマにしたドラマだけれども、夫婦の絆やら、夫婦の在り方を問題提起する面白いドラマ、

 

そもそも北川景子さんには、

とことん気の合う彼氏がいたけれど、30を過ぎてその彼に結婚する気がないことを知り別れを決断、

瑛太さんと「運命的な出会い」を果たして出会って3ヶ月で結婚するも、価値観が違い過ぎて生活を始めて数日で離婚を決意、

そこから色々あって夫婦の絆を深めると言うストーリー、

 

話が逸れたので戻します。

 

人は年を取るたびにライフステージが人とは遅れていることに不安を感じて、妥協してでも先に進もうとします。

子供のこと、親のことなどを考えると、進むべき時期に進んでいないと望む将来を手にすることができないかもしれないと陥る疑心暗鬼、

そうやって結ばれた先にある「夫婦」という関係、

始まりがどうあれ、お互いに寄り添う気持ちがあれば、関係は深まるのかもしれませんね。

戦前の日本では顔も見たことのない相手と結婚するケースの方が一般的で、自由恋愛が幅を利かせてきたのは、ほんの短い期間です。

そう考えると、互いに寄り添う姿勢があれば、ある意味では「誰でもいい」ということになるのかもしれません。

 

私は私の理想を相手に求め過ぎているのでしょう。

まずは己を見つめ直すところからでしょうか。

 

1100日連続更新の日は8月中旬、

そこまでに私にはどのようなドラマが待ち受けているのか。

はたまた何も変わることなくその日を迎えるのか。

 

どうなるかはわかりませんが、

気が向いたら引き続きお付き合いください。

 

昨日の記事にもたくさんのスターやコメントをいただきました。

いつも本当にありがとうございます。

1000日連続更新

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昨日の記事で1000日連続更新を達成しました。

 

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当面の目標としていたこの日、


実際に通り過ぎては見たものの、

何も変わることはありませんでした。


私の気持ちも、私の環境も、

多少の変化こそあれ、

1000日前と変わらないどころか、

むしろ時が経った分だけ「平均」と比べれば、相対的に後退しているくらいです。


私は「時の流れ」にふさわしいほど、

人生を先に進めることができていない。


ブログを書き続けて3年が経ちましたが、

1000日連続での更新を続けて顔を出したものは、

そんなネガティブな気持ちでした。


多くのブロガーさんが自分の人生を進めたくて、

何かを変えたくてブログを書き続けているのだと思います。

私もきっかけはそうでした。

 

多くの方と出会い、コメントをやり取りしていましたが、

この3年間で多くの方が先に卒業していきました。


前触れなく更新が途絶える方、

生活に変化があって更新できなくなる方、

更新することを重荷に感じて辞めてしまう方、

気がつくといなくなってしまった方もいました。


望むものを掴んだ方もいれば、

そうではなかった方もいたかと思います。


私の場合は後者です。

今のところ、手に入れたものは「経験値」だけ、


そして私はその「経験値」を使ってレベルアップできているのか。

それとも「それなりの経験」を積んできたつもりではいるけれども、次のレベルまでに必要な経験値量は膨大で、まだそこまで至っていないのか、

それは今の私にはわかりません。


少なくとも言えることは、

村上春樹氏が『回転木馬のデッドヒート』の中で綴られていたように「書くこと」だけでどこかに到達することはなかったのだろう。

 

全ての人に当てはまるかは分かりませんが、

少なくとも私の場合、そのことを実感しています。

 

そうは書いてみても、
何も「書くこと」を否定しているわけではありません。


私は「文章の力」を信じていますし、

樺沢紫苑さんの『アウトプット大全』にあるように、

ブログを書くことでの「インプットしたものの記憶の定着」や「アウトプット力の向上」は実感しています。


メタ認知」を癖にして、自分の内面と向き合いながら生きる力、自分の心に正直に生きる力、

そういうものを養うことができたと思っています。


ところがそれも「諸刃の剣」


人は「自分の心の声」から目を背けたほうが楽に生きられる場面も多いのです。

理想と現実とのギャップに目をつぶり「それなり」に生きる。

そのほうが幸せな場合も多いのです。

 

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結局、私が辿りついた答えは「人生は自己責任」ということです。


「どのような選択をしたとしても、その選択に責任を持つこと」

自分の人生の責任は自分以外の誰も取ってはくれません。


例え、誰かに敷かれたレールの上で生きてきたところで、そうやって生きる選択をしたのは自分自身なのです。

誰かのせいにしたところで虚しさは募るばかり、

 

自分に非が全くない場合も同様です。

テロみたいな不意の悪意に巻き込まれて、人生を大きく損なったところで、損なわれた人生を修復するのは自分自身、


誰かを憎んだところで、恨んだところで、

何も解決することはありません。


それどころか、心は虚無に侵食されて、

一生涯、決して離れることのできない唯一無二のパートナーであるはずの「自分自身」

その「自分自身」を嫌いになる一方です。


私の中には「何人の私」がいるのでしょうね。

もしかしたら誰もが「多重人格者」なのかもしれません。

 

「ペルソナ」を使い分けるというのではなく、心の中に「何人もの私」がいることを感じます。


私の行動を客観的に見て評価する私、

その評価に基づいて新たに行動する私、

最初の私とその次の私の行動を比較して分析する私、

評価している私のことを評価する私、


人は毎日生まれ変わっているのかもしれません。

 

そして「過去の自分」を許してあげることが苦手な生き物なのかもしれません。

だから「前に進んでいる実感」を求めて生きている。


だけれども、どれだけ自分のことを嫌いになっても、

自分とだけは別れることはできません。


それは「過去の自分」に対してもそうだし、

「理想とする未来の自分」に対してもそうなのでしょう。


だから自分を嫌いにならないように、

自分の人生に責任を取り続ける。


「生きる」ということは、なんと大変なことか。

「生きる」ということは、なんと辛く苦しいなことか。


それでも日常に散りばめられた「ささやかな幸せのカケラたち」


それが「生きる糧」となり、

「生きるに値する理由」となる。


だから人は生きるのでしょう。


「死ぬ理由がない」から生きるのではなく、

どんなに辛く苦しくても「幸せなことがある」から、

だから生きるのでしょう。

 

それは「生きる苦しさ」と比べたら、

全く割に合わないくらい些細な幸せかもしれません。

 

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BUMP OF CHICKEN『ギルド』


人間という仕事を与えられて

どれくらいだ


ふさわしいだけの給料

もらった気は少しもしない。


いつの間にかの思い違い

仕事ではないわかっていた


でもどうやら手遅れ

仕事でしかなくなっていた

 


「生きていること」にその対価を求めるから、

人は「生きること」に苦しむのかもしれませんね。


もともと割に合わないものだと思えば、

ある意味では諦めもつくのかもしれません。


だから生きる。

「幸せなこと」があるから生きる。


ふと見上げた空の青さに息を呑む。

頬を撫でる爽やかな風から感じる春の陽気に心を弾ませる。

ささやかな親切に対する「ありがとう」の一言に心和ませる。


目を凝らしてみれば、

「幸せのカケラ」は、そこかしこに転がっています。


それを見逃して生きているということはなんて勿体ないことなのでしょう。

心の燃料を無駄遣いしているようなものです。


「心のSDGs


心もサステナブルでなければなりません。

悪意が蔓延る中で、嫉妬や見栄に支配される世の中で、

「心の燃料」を枯渇させてはいけないのです。


だから私たちは自らの責任で、自らの燃料を確保して、

さらに理想を言えば「自らも誰かの燃料になっていく」


それこそが「心のSDGs」なのかもしれません。

 

とまあ、きれいごとですかね。


一応メモリアルなので、

今の心情を忌憚なく述べることが大事だと思い、

思いつくままに言葉を並べてみました。

 

 

さて、今後の当ブログですが、

冒頭に述べた通り、私自身が何も変わらないので、

何事もなかったかのように毎日更新を続けようと思います。


ストックはまだ膨大にありますし、

更新日の節目を迎えたからと言って私の生活が変わるわけではありません。


「1000日連続の日までに!」と気負いを感じていた時期もありますが、

そんなものは何の役にも立ちません。


私の生活が大きく変化するか、

私の吐き出すものが枯渇しない限りは、

このブログは続くのかもしれませんね。


とりあえずは「3年連続毎日更新」を目指して、

1096日、そして1100日を目指すことにします。


いつもご覧いただき、スターやブックマーク、

コメントまでいただきありがとうございます。


今後も気が向いたらお付き合いください。

 

生きる。

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「ポジティブ」で在り続けることは、

ある意味では「本能に逆らう」こと、


人は危険を回避するために、

「ネガティブな情報」を優先してインプットする。


「偏桃体」は今か今かと絶えずスタンバイしていて、

「不安」や「恐怖」の信号を五体に送ろうとしているのだ。


基本的に人は「ネガティブ」な生き物、


それ故に予防線を張り、

期待が裏切られたときの緩衝材を用意して、

「やっぱりね」だなんて言葉で自分を慰める。

 

「セルフハンディキャッピング」


そうやって、

何とか自分自身が壊れないように、

必死で大事なところを守っているのだ。


「ネガティブ」で自分を守ったほうが楽だ。

変に「明るい将来」に期待しなくて済むから、

 

どこかで物足りなさを感じていても、

「期待」さえしなければ、

大きく傷つくことはないのだ。


だけれども、

その「生き方」に慣れてしまうと、

自分で引いた境界線からは意地でも出なくなる。


そうやってどんどん選択肢は狭まって、

気が付けば走っているレールから抜け出すことはできなくなっている。


傷ついた経験もないくせに、

傷ついたフリばかりがうまくなって、

傷つくことから逃げているうちに、

傷つくこともできなくなって、


そのくせ、現状への不満ばかり漏らして、

一時の快楽に身を委ねることで発散して、

いったい何をもって「生きている」と言えるのだろうか。


「命の使い方」


ここしばらくの間よく考えること、

私はまだレールの上を走るだけで精一杯なのかな。


精神的にはだいぶ落ち着いて、

生活はほぼ取り戻したけれど、

どこかに「恐れ」があるのかな。


精神的に、身体的に、

1度ずつ死にかけたから、

「死」に対する恐怖とは向き合って来たつもり、


実際にもう一度「命の境目」と直面したら、

私はどう思うのか。

 

それはわからないけれど、

私は私の命のことを「仕方がないのかな」

くらいには思えているのかもしれない。


大河ドラマ麒麟がくる』で、

染谷将太さん演じる織田信長が本能寺での謀反の相手が光秀だと知ると、

「是非もない」と放った一言、


今よりもずっと「死」と隣り合わせで生きる時代だ。

 

「いつ死んでも悔いはない。

ましてや相手が光秀ならば良い」

それくらいの気持ちだったのかもしれない。


その反面で、

「この世でやることはやり切った。

もう生きることに疲れた」

そういう思いもあったのだろう。


もしかしたら人は、

「死に場所」を探して生きているのかもしれない。


何度も書いていることだけれど、

「命の尊さ」ばかりがクローズアップされて、

「命の使い方」に言及されることは少ない。


生きた年数ではないのだ。

心から「生を全うした」と思えること、

何よりもそれが大事、


私はまだやりたいことはあるし、

やり残したこともたくさんある。


まだまだ知らないことはたくさんあるし、

愛する人と体を重ねる経験もしてみたい。

 

ふとした時に感じる穏やかな気持ちから、

「生きていてよかった」と感じることもある。


良い作品に巡り合えたら、

「人に伝えたい」と思って筆を執る気力はあるし、

それに対する反応を嬉しく思っている。


だけれども、

いささか「疲れたな」と思うこともある。

 

「生きていることに疲れたな」って、

そう思うこともある。

 

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だいぶ話は逸れたけれど、

それもこれも私が「自分を守る為」に、

「ネガティブ」に引きずられているからなのかな。


「生きたいように生きればいい」けれど、

それは簡単なことではない。


「望んでも手に入らないもの」はたくさんあるし、

「報われない努力」のほうが多いくらいだ。


それでも私は「生きる」


「生きる」というレールの上から、

横道逸れることは私にはできないから、

 

ある意味では「死ねないから生きる」

そういう側面もあるのかもしれない。


そういう予防線を張って、

「幸せ」を逃してもダメージを受けないようにって、必死なのだ。

 

私はとことん臆病な人間だ。

特に女性関係についてはトラウマ級の恐れがある。

 

過去にばかり縛られて、

先に進むことを恐れ続けている。

そのくせチャンスを逃しては打ちひしがれている。

自分で選んでチャンスを見送ったくせにね。


それでも「生きる」


愚かで、浅はかで、醜いからこそ、

人は「生きる」のかもしれない。


それでも「生きる」ということは、

きっと何物にも代えがたいくらいに素晴らしいことなのだ。

 

そう信じて、私は生きる。

私にはきっとそれしかできないのだ。

 

望む未来につながらなかったとしても、

望む未来からそっぽ向かれたとしても、

 

どんなに努力が報われなかったとしても、

報われることを信じ続けて、

どこかに到達することを信じて、

私は生きる。

 

それしかないのだ。

 

自分の「性」とどう向き合ったらいいのかわからない

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私はこの3年あまりブログを書き続けてきた。


始めは気が向いた時に心情を綴るスタイル、

しばらくすると書きたいことが湯水のごとく湧き出てきたものだから、

書き溜めたものから毎日1つ記事を投稿するスタイルに変えた。


毎日投稿し続けて、

明日で1000日を迎える。


その期間を振り返ってみて、

伴侶を見つけるために年齢的に一番チャンスのありそうな3年間、

私は女性との関係を先に進めることなくその期間を消費してしまった。


実質9ヶ月程度の「婚活」で出会った女性は17人だろうか。

そのほとんどと1on1でのデートをした。

 

お熱だった頃にはブログのメインコンテンツとして、その経過を論じてきた。

 

「女性に対する敵視」

そういう目線での記事を書いていた時期もある。


多くの出会いを重ねてわかったことは、

私が心惹かれる女性と巡り合うことはほとんどないということ、

そして、もし出会えたとしても相手が同じように思ってくれるとは限らないということ、

この年で「恋愛を経た結婚をしたい」というのはとても難度の高いことだということ、


そんな「厳しい現実」ばかりだった。

 

前置きが長くなった。


さて、私はどう考えても「性的弱者」だろう。

30年以上も性行為を一度も経験することなく生きながらえている生物だ。


「つがいになる」という意味では人間という枠を超えて、

全生物中でもトップクラスにその能力が低いといえるかも知れない。


「気持ち」だの「誠実さ」だの、

そんな超自我に支配されて本能的なものを嫌悪しながらも、心の底ではそれを求めている残念な生き物、

 

そういう「生き物」が私だ。


その存在自体がなんと非合理的なのだろうか。

「種の保存」という生物的貢献度にフォーカスすれば「不倫をしまくるクズ男」のほうが、

よほど人類に貢献しているのかもしれない。

 

いや、そんなことはないか。

人類の築いてきた「婚姻」という制度を脅かすことは種にとって善とはならないのかもしれないな。


そんな意味不明な論理展開に行きつくほどに、

私の男としての自尊心はボロボロなのだ。


ここのところ改めて「禁欲生活」を再開したが、

そのことでさらに「惨め」に思えてくる。


私は私の「性」とどう向き合ったらいいのだろうか。

もはやわからない。


いくら禁欲を続けたところで、

欲自体が無くなるわけではないし、

これまで、その手の欲をひた隠しにしてきたものだから、

今更うまく使いこなす術はわからない。


私はただ「誠実さ」を女性たちに差し出しては、

それを搾取されるだけで終わるのだ。


手元には何も残らない。

人は本能のまま、リビドーに突き動かされて「動物」でありたいと願っているのに、

自ら作り上げた「社会」がそれを阻む。

 

そして「社会」の持つ力は益々強大になっていく。

共産主義も資本主義も関係ない。

今後もその流れは続くのだろう。


「人間」であるためには、

「動物」としての本能は捨てざるを得ないのかな。


そうやって「人間」はどんどん別の生き物に進化していく。

いや「進化」なのかどうかもわからない。

それどころか、もはや「生き物」なのかどうかもわからないか。

 

どんどん人の心は解析されて、

ビッグデータ」として蓄積されて、

商売の道具に変わっていく。

 

解析すればするほどに、

「心」というものの「ブラックボックス」は減っていき、再現可能になるのだろうか。

 

浦沢直樹PLUTO

心を持ったロボット「アトム」が生み出されたら、

人間存在の本質そのものを見つめ直さないと、

人類の道徳そのものが崩壊する。


他のものは「無機質」に変わったとしても、

「心」だけはいつまでも「有機的」で在りたい。


切にそう思う。

 

有機的であり続けること」

「そうありたいと願い続けること」

 

合理的とは対極の非合理、

そこに「性」に対する答えはあるのかも知れない。

 

いくら論理的に考察したところで、

私の悩みが解決するとは思えないのだけれども、