「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

結果的に良い方向に進むならば「マインド」はどうでもいいと言われた話

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私は割と行動に「意図」を求める方だ。


「なぜこれをする必要があるのか」

「この作業は無駄ではないのか」


そういうことを考えながら生きている。


慣習をそのまま無条件で受け入れることが苦手、

そういう性質なのだ。

 

昔の話、

学生時代のサークル活動の中で、

「リーダー」に当たる人と話していての、

「腑に落ちなかった経験」を思い出した。


活動をする上での「利己的な動機」と「利他的な動機」


金銭的なことは一切絡まないけれども、

「成長したい」だとか「人脈を作りたい」だとかは「利己的な動機」

「困っている人を助けたい」だとか「自分にできることをしたい」というのが「利他的な動機」


もちろん「利己」も「利他」も両面あって然るべきだけれども、

個人の意識として「利他的な動機」が前に出ていないと、

活動自体が「偽善」になるのではないかという意見を私は述べた。


それに対して言われたこと、


「利己」だろうが「利他」だろうが、

この活動をしていること自体が素晴らしいので「どっちでもいい」のではないか。


うーん。なるほど、

それはそれで一理ある。


だけれども「この活動自体が素晴らしい」って、

そこを無条件に肯定してしまうのは危ういんじゃないかと思った。

だから私はそれを聞いて「モヤっと」したのだろう。


「行動」には「気持ち」がこもる。


どこかで聞いた「家を建てる目的」の話、


3人の人がいて、同じように家を建てる作業をしている。

一人目は「何をしているのか?」と問われて「資材を運んでいる」という。

二人目は同じように問われて「家を建てているのだ」という。

三人目は同じように問われて「夢を叶えているのだ」という。


その三人目がサグラダファミリア教会を建築したアントニオ・ガウディだとかなんとか、

確かそんな話だった気がする。


要は、同じ作業をしていても本人の意識は全く違う。

単に「仕事としてそれをしている人」もいれば、理想に燃えて「夢を叶えるためにそれをしている人」もいる。

そんな例だ。


話を戻すけれど、

もちろんその「リーダー」は「社会貢献」を目的として活動しているのだろう。

私から見たら素晴らしい人格者だと思っていた。

そして「動機は人それぞれ」というところもその通りだ。


だけれども、家を建てる例に当てはめると、

単に「仕事で家を建てている人」だらけになってしまったら、

始めにあったはずの「理想」や「目的」はどこに行ってしまうのだろう。


そんな疑問が頭に残る。

これは本質的に「働く」ということにも通じる。


私は持論を振りかざして悦に浸っているだけなのだろうか。

どうにも最近、その辺りの線引きが難しいと感じる。


私の主張は「私の自意識」によるものなのか。

それとも純粋に「全体最適化」への寄与を目的とするものなのか。

その出所は当の私にもわからない。


動機が「利己」なのか「利他」なのか。

おそらく二者択一ではないのだろう。

それに当人にとってもそれを言語化することは困難だ。


それならば「リーダー」の言った通り、

「動機はどっちでもいい」というのが正解なのかもしれない。


だけれども、

どこか「モヤっとする」のはなぜだろうか。

 

それは私が「理想」に対して希望を抱き過ぎているからなのだろうか。

期待値が高ければ高いほど、その落差に人は絶望を感じる。

 

私はまだ、世界に対して、自分に対して、大きな期待を抱いているのかもしれない。

だから「モヤっとする」ことが多いのだ。

 

昔のことを思い出して、

ふと、そんなことを思った。

「自分はこういう人間だ」と定義付けることに必死

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誰しも「自分」というキャンバスに色を塗りながら生きている。


毎日何かを選択することを迫られて、

そのたびに「赤」か「青」か「黄色」か、

それとも新しい色を使ってみたいから「エメラルドグリーン」かって、

そうやって選びながら生きているのだ。


「油性の絵の具」で上書きすることもあれば、

「水性の絵の具」で過去に選んだ色と混ぜることもある。


納得いく出来の作品ができたならば、

「これが私なんだ」って、名前を付けて保存しておけばいい。


そうやって保存したフォルダを眺めては、

「自分はこういう人間だ」と何者かになれたように安堵する。


しばらくの間、納得のいく作品ができなかったら、

「停滞感」を感じて不安になる。


フォルダの内容を人と比べてさ。

どこか物足りないようだとまた不安になる。


そのうちに「納得していないもの」や「中身のないもの」でフォルダを埋め合わせて、

とりあえず「人と同じだけのものがあること」に胸をなでおろす。


そのうちにフォルダはどんどん雑多になっていき、

自分でもどこに何を置いたのかわからなくなる。


「自分はこういう人間だ」って決めたはずなのに、

本当にそうなのかどうかもわからなくなる。


上手くやっていくために、

いくつもの「ペルソナ」を使い分けてさ。

「醜いもの」でも「使用中」で削除できないからってフォルダの階層深くに押し込んでさ。

「都合の良いもの」だけを見える範囲に置いておく。


そうやって「自分はこういう人間だ」って悦に浸るのだ。


なんとも「都合の良いこと」で、

なんとも「ご都合のよろしいこと」で、


「醜さ」も自分自身、

消したくても消せない自分自身、


「虚像」ばかりを信じ込んでいるうちに、

やがて「虚像」はどんどん肥大化していく。


何に怯えているのかな?

どうしてそんなに必死なのかな?


嘘を本当にしなければいけないってことはさ。

自分の「弱さ」や「醜さ」をさらけ出すことよりも大変なこと、


「見せかけ」ばかり立派で中身はスカスカ、

それほど「惨めな人生」はないんじゃないのかな。

 

「自分らしさ」

 

本当に自分らしい人ってのは、周りからどうみられるのかをあまり気にしない。

周りに対して自然と自分のことを曝け出すことができるから、

 

定義づけることにばかり拘って、

自分をブランディングすることばかりに躍起になって、

立ち位置ばかりを気にして生きて、

 

なんだかさ。

疲れてしまうよ。

社会ってものはそういうところなのかな。

 

生きるってことが、

もっと自由にならないのかな。

「自分のやり方」との折り合いの付け方

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私として生きれば生きるほどに、

私は「私のやり方」にこだわるようになる。

 

長い年月を積み上げて確立したものであるほど、

自らのアイデンティティと同一化して愛着がわく。

そうやって人は「自分であること」を確認しているのだろう。

 

無意識に選択をしていたら同じような選択を繰り返すだけ、

 

どれだけ悩んで出した答えでも、

直観に従って出した答えでも、

おそらく「私が私である限り」はそこまで大きく変わらないのだ。

 

今回の転職、

これまでの私ならばおそらくしないような選択をした。

だから、それは意図的にそういう選択をしたことになる。

 

前の場所にとどまる選択肢もあった。

むしろそれが一番安全だったのかもしれない。

 

複数の引き合いがあったから、

前の経験を活かせる場所への転職という選択肢もあった。

だけれども私はそれを選ばなかった。

 

「経験のパラダイムシフト」

 

もう一度くらいはそういう経験が必要だと感じた。

だから、私はこれまでの私が選ばないであろう選択をした。

 

やはり苦労は多い。

だけれども、刺激的な毎日を送っている。

 

職種が変わるわけではないけれど、

環境に加えて、業務内容は大きく変わる。

歯を食いしばる場面や、頭の中がこんがらがる機会も多い。

ほとんどのことが「思い通りにはいかない環境」だ。

 

そういう環境に身を置く中で、

否応にも「私も変わらなければならないこと」を実感する。

「自分のやり方」ではやっていくことができなくなるのだ。

 

意図してこれまでとは違う選択をすること、

その行く末にまた「新たな自分」が見えてくるのかもしれない。

 

無理矢理にでも自分を変える方向へと舵を切っていく。

その繰り返しの中で荒波に揉まれて、時には目的を見失って、

どこに向かっていて、何を求めているのかもわからなくなったとしても先は先へと進むのだ。

 

その中で掴み取ったもの、

それが「生」を実感させてくれる。

 

「自尊心」は成功の中にのみ築かれるものではないのだ。

歩んできた道のり、

そこに責任を持つことができればそこにも確固たるものが築かれていく。

 

そう信じて一歩を踏み出す。

そしてまた一歩を踏み出す。

その繰り返しの中で人生は進んでいく。

 

最近は寝ても寝ても寝足りない。

 

疲れが溜まっているのだろうか。

季節的なものだろうか。

寒くなってきて体を動かすのも億劫だ。

 

運動習慣は乱れている。

その辺りは改善していかなければ、

 

やるべきことをやり続ける。

もう一度、生活を棚卸ししよう。

不要なものはまだ沢山ある。

 

それもまた、意図的に変えていかないと変わらないのだ。

 

必要なものは残して、不要なものは削っていく。

そうやって私はこれまでの私と折り合いをつけて、

今思う「良い方向」へと進んでいくのかな。

 

「10年間」

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はてなブログ10周年特別お題

10年で変わったこと・変わらなかったこと

 

昨日の記事でチラッと書いたけれど、

10周年記念の企画に応募してみた。

 

レッドスター10個をもらえるというのは面白い。

皆さんのブログに対して目に見える形で応援のメッセージを送ることができる。

それがはてなブログにおけるスターの役割だと思う。

 

照れ隠しみたいだけれども、

何かしら理由の必要な性分なのだ。

 

昨日の記事を応募フォームから再投稿すればそれで良かったみたいだけど、

なんだかそれが嫌だったので改めて筆を執る。

 

「10年間で変わったこと」

 

仕事が変わった。

心も体が変わった。

世界も世界との関わり方も大きく変わった。

 

むしろ変わらないことを探す方が難しいくらいだ。

 

その間で2度の転職をして、

当時と全く変わらない付き合いをしている人間関係というのも親くらいかもしれない。

いや、改めて考えると親との関係すらも変わっているのかもしれない。

 

何もかもが変わってしまったように思う。

 

5年前にパニック障害と診断されてから、

私に見える世界は大きく形を変えた。

 

あらゆるものを手放して、もう一度価値観を構築しなおして今に至る。

生活を取り戻すどころか、以前よりも活動の幅は大きく広がり、世界の広さを実感している。

 

しかしながら、疲れやすく無理の効かない体になってしまった。

先に進みすぎないように体がシグナルを送ってくるのだ。

 

元の体に戻ることはできない。

 

それでもメンタルをやってしまったところで、

「悪いことばかりではない」ということは、

身をもって言えることだと実感している。

 

自分の人生の責任は自分で取るしかない。

 

どんなに理不尽な目にあったとしても、

誰かが代わりに責任をとってくれるわけではないのだ。

憎しみに囚われていたら、その囚われた時間を浪費することになる。

 

だから過去を背負って、

しっかりと大地を踏み締めて、

鉛のように重い足を一歩、また一歩と踏み出し続けるしかない。

 

その先には「必ずしも希望が待ち受けているわけではない」けれども、

それでも「必ず希望が待ち受けている」と信じて進むこと、

先行きの見えない今の時代には、そういう「力強さ」が求められている。

 

「生きること」それ自体にエネルギーが必要なのだ。

それは無理の効かない体になって特に感じること、

 

この10年間で、私は別の人間に生まれ変わったかのように多方面に活動的になった。

生きることに対する不安感が私をそうさせるのかも知れない。

 

たとえ寿命が短くなったとしても、

ただ漫然と時を過ごすよりは、私にとってはそっちの方がいいのだろう。

 

ある程度社会は成熟して、

命の大切さを説く機会は増えてきているけれど、

まだまだ「命と使い方」にまで議論は及ばない。

 

だけれども昨今の若者たちは、就職する企業の決め手として「社会貢献」をいの一番に挙げるらしい。

 

世界も変わってきているのだ。

「どう生きるのか」

それを真剣に考える時代へと足を踏み入れている。

 

色んな意味で人が兵隊だった時代から、

人が尊厳を主張する時代へ、

 

使う人と使われる人に分かれていた時代から、

共存、共生する時代へ、

 

そんな渦中にいるわけだから、

私も変わるのは当然だろう。

 

翻って変わらないこと、

 

ヤクルトスワローズのファンということは変わらない。

これは私を形成するアイデンティティの中で、思いのほか大きなものなのかも知れない。

 

「10年間」

 

これだけあらゆることが変わってしまうと、

私はこの10年で何かを貫いた経験があるのだろうかと疑問に思う。

 

これからの10年はそういうことを意識して、

軸のある筋の通った人間であることを意識した方がいいのかも知れない。

 

足りないものばかりに想いを馳せていると、

取ってつけたように経験ばかりを吸収して中身のない「つぎはぎ人間」になってしまう。

 

一度手放した価値観のうち、

もう一度拾い集めたものたちは、きっと私にとっては重要なものなのだろう。

 

そこを軸として筋を通すこと、

それがこれから先、私がすべきことなのかもしれない。

 

10年前には想像もしていなかったところにいる。

10年後にはまた、想像もしていなかったところにいるのかもしれない。

 

それでも私が私であり続けるために、

自分に嘘をつきながら生きることだけはしたくないと思う。

 

そのためには「実力」と「人格」が必要、

少なくとも自分にできる努力だけは怠らずに進みたい。

 

気がつけば2020年代だったという話

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はてなブログがサービスを開始して10周年を迎えるらしい。

「ブロガーに10の質問」なんて記事が流行っている。

 

ふと10年と聞いて思い浮かんだのだけれども、

2000年を越えてから10年単位区切りの価値が薄れている気がする。

 

2000年代、2010年代を経て、

気がつけば今は2021年だ。

つまり2020年代に突入していることになる。

 

時代の節目としての10年、

少なくともここしばらくはそういう意識が私には全くなかった。

 

それは私が歳をとったからだろうか。

2000年代に流行った曲と2010年代に流行った曲、

その区別があまりつかなかったりする。

 

概ね自分が学生だったか否か。

そんなわかりやすい区切りのはずなのに、

年代別ランキングなんかをみていると、

この曲はこんなに昔だったのかと驚くことが多い。

 

そして2020年代のはじめ、

既に2010年代との境目はわからなくなっている。

 

例えば私のハマった「あいみょん」は2010年代のアーティストなのだろうか。

それとも20年代となるのか。

鬼滅の刃』でブレイクしたLiSAはどうなのか。

もはや直近のものですら区別がつかない。

 

そう思うと学生の頃は、1年が長かったのかも知れない。

新しいことを経験する日々、

それは彩り豊かで記憶にも鮮明に残るのだろう。

 

前に記事にしたけれど、アニメ『ReLIFE

社会に出て挫折したやさぐれたフリーターが怪しげな薬を飲んで学生生活をやり直すという形の就職試験を受けるというシナリオだ。

その時間の中で失った心を取り戻していく。

 

tureture30.hatenadiary.jp

 

我々は歳をとるごとに、

同じような毎日を送って、

同じように時間を浪費してやしないだろうか。

 

変化の起こることに期待しながらも、

期待をしているうちに時は過ぎていく。

どんどん変化の起こることは少なくなっていくのだ。

 

ただ毎日を消費して歳ばかり重ねていく。

 

これが私が転職という形で環境を変えてみて感じた最も大きなことの一つだろうか。

 

何も新しいところに飛び込めばいいというわけでもない。

環境を変えなくても「生き方」を変えることはできる。

毎日のルーティンに一手間加えるだけで、

それが極上のスパイスになることもあるだろう。

 

何が書きたかったのかというと、

「歳をとるごとに人は変化を避けるようになる」

そして「そのことに気がつかないまま、ただ時間だけが過ぎていく」のではないかということだ。

 

20代と比べたら格段に速い速度で30代は消化されていく。

このまま気がついたら、あっという間に身動き取れなくなってしまうのではないか。

 

気がつくと2030年代になっていた。

そういうこともあるかも知れない。

 

そうならないように、

もっと一歩一歩を味わいながら進みたい。

 

そう思った。

 

その日暮らし、むしろ健全

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なんだか「一日」を意識して生きている。

 

今日は何をしないといけないだとか、

何時までに何をしてだとか、

そういうことを明確に意識しているのだ。

 

割とそういう性質の持ち主だったけれど、

慣れない環境に身を置いている分、

余計にバッファを確保して生活しなければならない。

 

心に余裕がなくて、

時間に余裕があるようで余裕はなくて、

そんな不思議な感覚のまま日々が過ぎていく。

 

先週のこともあまり覚えていない。

下手すると数日前に事もあまり覚えていない。

常に目の前のことや先のことで頭がいっぱいなのだろう。

 

環境の変化というものは、

思った以上に私に変化をもたらしている。

 

疲れているが体調は悪くはない。

むしろ健全な生活を送っている気すらする。

 

前の職場では仕事以外で無駄なストレスが多かった。

そこから生まれる自己嫌悪にさいなまれている時間が多かった。

 

忙しくて大変で余裕がない。

それは悪いことではないのだろう。

 

余力があり、時間を持て余していると、

どこか不健全な考えを起こすようになる。

 

どこからか課題を課すようになるのだろう。

過去のことを掘り起こしてきたりだとか、

必要以上に今足りないものに思いを馳せてみたりだとか、

将来の不安ばかりを探し出す。

 

そのくせ、変に自尊心ばかり肥大して、

謙虚な気持ちは失われていく。

 

人間、挑戦していないとダメになる。

 

前の職場では、

人脈を見込まれて、定年を過ぎてから天下りのような形で入社した役員がいた。

 

社員よりよほど高収入の立場でありながら、

たまにアドバイスをする程度しかやることがなく、

時間を持て余しているように見えた。

 

それでも在籍するだけで会社にはメリットがあるのだろう。

そういうポジションの方がいた。

 

「自分もこういうポジションになれたら老後は安泰だろうな」

 

そんなことを思っていたけれど、

思い返してみるとその方は職場にいてもまったく楽しそうではなかった。

 

もしかしたらそれは「時間の浪費」

ある意味で不健全な立場なのかもしれない。

 

「労働の対価が過不足なくきっちりと支払われる」

それってものすごく健全なことなのだろう。

 

本人の主観なのかもしれないけれど、

対価が「少ない」と感じれば当然不満だし、

「多すぎる」と感じても満たされない。

 

「ちょうどいい」

そう思える仕事こそが適職なのかもしれない。

 

世間の感覚との乖離、

日本は先進国の中で珍しく賃金の上がらない国だといわれているけれど、

それと同時に物価も上がらない。

 

これも広く見れば「環境」だ。

そういう環境に長く居続けるとそれが「当たり前」になる。

 

今いる環境が「健全」なのか。

それとも「不健全」なのか。

 

そんなことを考える暇もないくらいに、

我々は働き続けているのだろうか。

 

環境を変えてみて、

いろんなものが見えてきた気がする。

 

それはそれでいい経験だ。

これから私はどのような道筋をたどるのだろうか。

 

それはわからないけれど、

今はこれでいいのかもしれない。

 

大変な毎日を送りながら、

何かを自分の中に詰め込んでいるのだろう。

落ち着いたらまとまったアウトプットをしたいものだ。

 

飼いならされているうちに、

そういう意欲すら失われないといいけれども、

 

今日も進もう。

一歩一歩と、

オーシャンパシフィックピース

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こんなにも簡単に「立ち位置」は変わってしまう。

それを身をもって実感した。

 

「生活」を変えようと思えばいくらでも変えられるのだ。

それもいとも簡単に、

 

たった数か月前とは別の世界で生きている。

 

全く違う道を通り、

全く違う場所にたどり着き、

全く違う人たちと働く。

 

思っていた以上に変化は大きい。

心は上下に大きく揺さぶられるのだ。

 

ちょっと大変、

いや、かなり大変、

毎日が大変だ。

 

これは下手こいたー。

 

「でも、そんなの関係ない」

「はい。オッパッピー」

 

この小島よしおさんの「オッパッピー」という言葉、

実は「オーシャンパシフィックピース」の略とのこと、

彼は「下手こいた」瞬間から、太平洋の平和のために踊るのだ。

 

そう考えると、何やらものすごく器の大きい男に見えてくる。

 

なぜ私はこれを題材に記事を書いたのだろうか。

疲れているのかもしれないな。

 

土日も含めてあまり心休まる暇がない。

 

そんな時こそ彼のように広い視点で、

自分よりも大きなものに対する貢献を考えるべきなのかな。

 

太平洋の平和を願って生きていれば、

今の悩みなどちっぽけに思えてくるのだ。