「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

常に体調を崩している

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今は喉が痛くて声が出ない。

耳にこもる感じがあり違和感を覚える。

動けないほどではないが気力が湧いてこない。

そんな状況だ。

 

私の体調がすぐれなくても子供は容赦なく襲いかかってくる。

朝は叩き起こされて、そこからずっと目が離せない。

歩き始めたものだから行動範囲が広がり何をするかわからない。

 

そしてイヤイヤが始まった。

少しでも気に入らないことがあるとイヤイヤ泣いて喚き散らして手がつけられない。

食べ物の好みもうるさくなってきた。

口に入れたものが気に入らないと吐き出す。

そして親はその始末に追われるのだ。

 

想像していた10倍は過酷。

子供が生まれる前に私が想像していた子育ての大変さ。

そんなものは絵に描いた餅だったのだ。

現実はそんなに甘くはない。

 

毎日子供に振り回されながら、日々のタスクは変わりなくこなす必要がある。

それどころか、妻が仕事に復帰をしてからは私の家事負担は増えるばかりだ。

今では料理全般を担当するようになった。

 

お盆は少しゆっくりできた分、それが終わってからの反動で過酷な生活に体がついていかない。

そして謎の体調不良が続いている。

 

反面、子供はどんどん無邪気にすくすくと成長している。

親の苦労を養分にして成長していくのだ。

そして、私も子供の頃は同じようにして成長してきたのだろう。

 

鬼滅の刃』の映画の中で、主人公の竈門炭治郎が敵である鬼の猗窩座に対して述べた言葉を痛感する。

「強いものが弱いものを守る。そして弱いものは強いものに守られて力をつけていき、やがて強くなったら弱いものを守る。その繰り返しが自然の摂理だ」

 

先日の記事では映画を見て心に残るものがなかったと書いたが、そんなことはない。

ちゃんと良作にはメッセージが込められているのだ。

 

子育てはまさにこのセリフを痛感するものだ。

あわよくば、先の未来には、私が衰えて弱くなった時に、子供が私を守ってくれるのかもしれないのだから。

 

体調を崩している今の苦労は、未来につながる苦労だ。

そうして人は未来に自分の存在を繋いでいく。

鬼と違って短い寿命しか持ち合わせていなかったとしても、自分の存在を別のものに乗せて先の未来まで生きていくのだ。

自然の摂理とはよく言ったものだ。

映画『鬼滅の刃 無限城編 第一章』を見てきた

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久々に夫婦で映画を見てきた。

お盆期間だが保育園に子供は預けられるものだから、たまには二人の時間を持ちたいと思い、仕事ではないが子供を預かってもらった。

 

鬼滅の刃

映画公開までのお膳立てがすごかった。

何処もかしこも鬼滅コラボを開催しており、炭治郎と禰󠄀豆子が至る所で見受けられる。

 

テレビではアニメシリーズの再放送を「これでもか」というくらいに何度も放送していた。

それだけ力を入れてプロモーションしていることがわかる。

 

かくいう私も、アニメシリーズの再放送を見て、万全の準備を整えて映画に向かった。

ネタバレ防止のために、内容については触れずに記事を書く。

 

率直に感想を述べるならば「よくできた作品だ」と思う。

2時間を超える長い作品だったが、初めのシーンから掴みはバッチリで、怒涛の如く良質な戦闘シーンが続く。

そして抜群のタイミングで回想シーンのパートが入り、登場人物の背景や感情を非常にわかりやすく説明してくれる。

 

「優等生この上ない作品」という表現が適切だろうか。

予備知識なく映画を見た人にも状況がわかるくらいにセリフで状況説明をしてくれる。

演出も構成も申し分ない。

これだけ長い作品で、一瞬も飽きさせることなく視聴者を置き去りにしないで最後まで走り抜けることのできる作品は稀だろう。

 

今の時代に合わせて、トップクラスの技術や知識をかき集めて生み出された作品であることは疑いようがない。

それほど優れた作品だ。

 

ところが「その優等生すぎる面」

そこに違和感に映るのは私だけだろうか。

見た後に「すごかった」以外の感想が出てこない。

 

アニメシリーズは全話見ており、原作も一通り最後まで読んで、作品に対する予備知識がそれなりにある私ですら、何か芯に響くような感想が出てこないのだ。

記事にもしたが、『君たちはどう生きるのか』や『すずめの戸締り』を見た時は、何か芯に響くような感想がとめどなく溢れてきたことを覚えている。

おそらくそれは、これらの作品には視聴者に解釈を委ねた部分が多く存在するからだろう。

 

この『鬼滅の刃』は、誰が見ても同じように状況を理解することができて、同じように「すごい」という感想を持つ作品なのだろう。

否定する余地もない、完璧な構成と演出で作品を作り上げて、人によっての解釈違いから議論に発展する余地もないくらいに、懇切丁寧に状況や感情を説明してくれる。

私が感じる違和感は、そういうところにあるのかもしれない。

 

ある意味では、これはジャパニメーションの到達点と言えるのかもしれない。

最近はタイパを重視して倍速で映画を見る人たちが増えているという。

だからこそ、セリフというわかりやすい形で状況を全て説明してくれる『鬼滅の刃』という作品は、時代に受け入れられて大ヒットに至ったのだろう。

 

「今の時代」に合わせた形で、おそらくこれ以上に万人に受け入れられる制作手法はない。

本作はプロモーションの甲斐もあって、歴代トップの興行収入を伺う大ヒット街道を爆進している。

商業的に「間違いはない」のだ。

 

一方で、これが「今の時代」なのだな、と物悲しく感じる面はある。

視聴者は、与えられたものを咀嚼する中で自らの血肉にする過程を放棄してしまって良いものなのか。

その過程すら,今の時代ではタイパが悪いと切り捨てられるものなのだろうか。

それとも単純に、私の感覚が時代から淘汰されるべきオールドスタイルということなのだろうか。

 

作品以外のところで色々と考えてしまった。

本作が、力のある素晴らしい作品であることに疑いの余地はない。

コツコツと生きる

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気がつくと8月だ。

「毎日を積み重ねている実感」

そういうものが今の私にはある。

 

それは「育児」という名の「苦労」がもたらしてくれるプレゼントなのかもしれない。

子供の成長を日々実感する中で時が進んでいることに気がつく。

「大変」という一言で表すことができないくらい大変だが、そこから生まれる充実感は確かにあるのだ。

 

閉塞感を感じていた5年前の夏。

私はブログにこんなことを書いていた。

tureture30.hatenadiary.jp

 

「先に進んでいる気が全くしない。

それでもコツコツと生きていく。」

 

コツコツと。

その積み重ねの中で、今の私は当時の私が望んでいた未来を手に入れた。

 

力がないからと言って、何も変わらないからと言って、諦めて漫然と時を過ごすだけでは何も変わらない。

自分の人生を切り開くキッカケは、誰かが与えてくれるものではない。

自分で掴み取る必要があるのだ。

 

人はいつだって無い物ねだりだから、今の私にしても今は今の人生に不満があって、先に進みたいと思っていることがある。

いつだって私の姿勢は変わらないのだ。

 

ただ、コツコツ自分のできることを積み重ねていく。

私にはそれしかできない。

そして、その先には、どのような過程を経たとしても、私の望む未来が待ち受けていると信じている。

 

一つの成功体験から、その漠然とした希望を手に入れることができたことは、私にとって幸運なのだろう。

それが欲しくて欲しくてたまらなくても手に入れられないこともある。

報われない努力など山ほどある。

それでも数少ない報われた努力を抱きしめて、コツコツと前に進み続ける。

 

そういう生き方ができるということは幸せなことだ。

例年以上に暑い夏。生活も環境も過酷だ。

それでも感謝を忘れてはならない。

命ある限り、コツコツと前に進むのだ。

 

「自分に価値があると思えない」と人は生きていけない

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魚豊『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』。

陰謀論に踊らされる人の心理描写を見事に描いた作品だ。

人は、「自分に価値があると思えない」と生きてはいけない。

だから、陰謀論に踊らされてしまうのだ。

 

陰謀論

世界を裏で操っている奴がいる。

だから自分は報われないし、世の中の多くがその存在を知らないのに自分は知っている。

そいつらの陰謀を打ち砕くために自分は行動を起こしている。

だから自分には価値がある。

 

そうやって架空の何かを自分よりも下に置くことで、自分に価値があると思い込もうとする。

何をやってもうまくいかないから、うまくいかない理由を作り出すために、架空の何かを敵とみなして攻撃することで生きている実感を得ようとする。

 

下の下の自尊心の満たし方。

誰かの価値を下げることで、相対的に自分の価値を上げようとする、なんともお手軽に自尊心を満たすことのできる行為。

 

リアルと向き合って、汗水流して生活を良くしようとまともに生きている人間からすれば、それを向けられて損失を被ることは、なんとも傍迷惑な話だ。

 

それが癖になってしまうとさ。

そういう生き方しかできなくなるよ。

 

結局、自分が変わるしかないのだ。

どこかで必ずリアルと向き合わなければならない時が来る。

その時を迎えた時に立ち向かうだけの力量を身につけてきたのか、それともお手軽な方法に逃げてきたのか。

それまでの生き様によって対処は大きく変わってくるのだ。

 

「自分の人生がうまくいかないのは自分のせい」

 

結局のところ、そういうことなのだ。

誰かのせいにしたところで何も変わらない。

一時はしがみつく先があって、それで救われたような気持ちになるかもしれない。

しかし、それだけのことなのだ。

 

人生風まかせ。

うまくいかなければ誰かのせい。

信じていたのに裏切られた。

なんとも惨めな人生を歩んでいる人。

そういう短絡的な人が世界的に増えているのかもしれない。

 

今の時代は、情報で溢れかえる時代だから、正しい情報を取捨選択することが難しい。

だからこそ、ファクトベースで真実を見極める力が何よりも大事になる。

 

まぁ、失敗しなければわからないことは多い。

一時は騙されて、そこから学ぶことができるならばそれで良いのかもしれない。

 

人生は長いのだ。

その間、何度も変わることができる。

そのチャンスを逃してはならない。

失敗から学ぶことのできない人は、

もはや救いようがないのだから。

時間に追われている原因

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「常に忙しい」という感覚がある。

その理由は、私が「自分のために時間を使っているという実感がないから」ということに気がついた。

仕事が終わると家事をこなし、育児をこなし、夜中には子供に起こされて世話をしたり。

私は私のために時間を使っていない。

 

子供が寝てからの時間にテレビを見たりゲームをしたりしているが、どこか心ここに在らずだ。

この時間を睡眠に当てた方が価値的なのではないかと考える。

 

私は自分の時間を楽しめていない。

つまり、自分で自分の時間をコントロールできている実感がないのだ。

日課のように溜まったドラマを見たり、ゲームのイベントをこなすことが、果たして私のやりたいことなのだろうか。

やめてしまえばいいのに、それもできずにルーティンワークをこなしている。

なんだかそんな感覚なのだ。

 

どうしたら、私は自分のために時間を使っているという実感を得ることができるのだろう。

それは「生きる上で何よりも大事な実感」であるように思う。

 

今の私にはそれがないのだ。

自分の時間よりも子供を優先する。

今はそういうフェーズだからといって、負け犬根性みたいなものが染み付いてしまったら、これから先もずっと、私は私のために時間を使っていると思えなくなってしまう気がする。

 

何か対策をしなければならない。

目の前のタスクをこなし続けるだけで、時は流れていく。

その積み重ねの先に、私の手元に残るものはなんだろう。

 

人生はまだまだ長い。

しかし、それは私が思うほど長いものではないのかもしれない。

私と娘との間には流れる時の体感速度の違いがある。

娘がいるお陰で刺激的な日々を過ごしているように感じていても、そこには明確な体感速度の差があるのだ。

 

私は私の人生を生きなくてはならない。

例え、娘のことで多くの時間を割かれたとしても、その間も私の人生を生きなければならないのだ。

 

そのためにはどうしたら良いのか。

それは「主体的に行動を決めること」だと思う。

目の前のタスクが多すぎて、それをこなすだけで精一杯。

それが現状だ。

 

ドラマもゲームもその要素が強い。

私の気質なのかもしれないが、目の前のタスクを効率良くこなすことに囚われすぎることがある。

そこから自分を解放することが第一歩だろうか。

 

もっと自由でいい。

それを頭で理解していても、私は自分のことを自由とは反対方向に進めようとしたがる。

そこを変えなければならないのだ。

 

そのためには何をしたら良いのだろう。

30代も終わりを迎えようとしている。

ここからでも大きく変わることはできるのだろうか。

6月が終わった

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「5月が終わる」という記事を書いてから、これが3つ目の記事となる。

今の私のブログ記事投稿ペースは10日に一度といったところか。

 

エッセイ寄りの文章の書き方はどんどん薄れていく。

毎日ブログを書かなくなった途端、ビジネス寄りの文章を書く割合が極端に増えたものだから、私の文章は「ただ事実を報告する」という面白みのないものに変わっていく。

 

そうなると、思考も面白みのないものに変わっていく。

効率ばかりを重視して、どこか人生を楽しもうという余裕がなくなった。

ブログを書き続けることは、ある意味では私の心にゆとりを設けるために必要な作業だったのかもしれない。

 

先のことはわからない。

もしかしたらまた毎日ブログを更新する日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

今はこのペースでブログを書くことが無理のない範囲のように感じられる。

 

そんなことを考えた6月だった。

 

暑くなってきた

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6月とは思えない暑さ。

連日真夏日となっており6月としては異常事態だ。

一足早くに夏が来た。

 

プロ野球交流戦が終わり、スワローズは一軍も二軍も交流戦も最下位という救いようのない状況だ。

主力が軒並み怪我で離脱をして戻ってこない。

今年は育成の期間と割り切って進むしかないのだ。

 

私の周りではいろいろな変化が起きている。

少しずつだけれども確実に。

私はどこに向かっているのだろう。

今は大きな渦の中を流れに従ってただ前に進んでいる。

そんな感覚だ。

 

世界は変わっている。

私も変わっている。

その変化は私の人生に好ましい影響を及ぼすのだろうか。

 

短期的に見れば、過酷な方向にばかり進んでいるが、長期的に見れば成長という形のリターンがあるのかもしれない。

それは先になってみないとわからないのだ。

 

何をするにしても大変だ。

大変とは「大きく変わる」と書く。

この小さな変化の積み重ねの先に待ち受けている「大変」を味方にして、力強く前に進んでいくしかない。

 

前に前に。

一歩前に。

 

「暑さ」と共に、

私の人生は「熱さ」を増していく。

いよいよ暑い暑 熱い夏が始まるのだ。