人は認められたい生き物、
一度何かで認められると、
脳内で快楽物質が分泌されて、
より「認められたい」と思うようになる。
特に子供はみんなそう。
身近な人、
多くの場合は親、兄弟、
その人たちが喜んでくれるから、
無邪気に拍手してくれるから、
自分にかまってくれるから、
だから一度褒められたことを何度も繰り返す。
時と場合など考える頭はない。
前に褒められたから良いことなんだと信じて、
認めてもらいたいから、
何度も何度も繰り返す。
悪意はないのだ。
ただただ周りに認めてほしいだけ、
「自分はここにいるんだよ」って、
気がついて欲しいだけ、
褒めたい時にだけ褒めるのは、
大人の身勝手なのかもしれない。
その純粋さが高じて、
「将来の夢」になんてなることもある。
学校で一番サッカーが上手いだとか、
将棋なら誰にも負けないだとか、
書いた絵がコンクールに入賞しただとか、
だけれども上には上がいるもので、
努力が認められなくなってしまうと、
いつの間にか描いた「夢」のことを忘れてしまう。
誰もが「夢の飼い主」だったはずなのに、
どこかでその役目を放棄してしまう。
「忘れないで、得意だったことを」
「忘れないで、好きだったことを」
そう言ってあなたの「夢」は待っているのかもしれない。
心の片隅の寒く薄暗いところで、
あなたが思い出してくれることを、
夢中になっていたこと、
没頭して気がつけば暗くなっていた日のこと、
褒められて誇らしかったときのこと、
たまにはそれを思い出してみるのも悪くない。
今の自分を形作っているもの、
間違いなく自分のルーツはそこにあるのだから、
「価値あることを生み出さなければいけない」
そんなことに必要以上に縛られるから、
楽しかったことを忘れてしまう。
楽しむことを忘れてしまう。
コモディティ化しない価値は、
自分が心から楽しいと思えるものの中にしかない。
心が弾まないから、
心を弾ませないような努力ばかりを重ねるから、
日常が色あせてしまう。
自分のルーツはどこにあるのか。
「何者なのか」を問う前に思い出さないといけない。
「ただ名前を呼んでくれるだけでいいんだよ
ねぇそれだけ忘れないで」
どうせ努力をするならば、
ワクワクするものにその時間と労力を使いたいもの、
子供はみんなそれの天才、
教えてもらわなければいけないな。
天才だった頃の自分を思い出しながら、