便利になればいいというものではない

f:id:tureture30:20190228070444j:image

 

「なんとなく疲れている」ということは減った。

「明確に疲れている」のだ。


疲れて仕方がない。

自律神経が乱れていることは明白、


若干の乱れはあるものの、

規則正しい生活を続けている。

運動習慣はある。

体は順調に仕上がっている。


おそらくストレスが強いのだろう。

それも要らぬストレスばかり、


必要のない人間関係と、

必要のないことで悩んで、

必要のないことばかりやらされる。


「必要がない」と提案しても、

「今までもそうしてきたから」と、

おあつらえ向きの返答、


「やりたいこととやらなくてはならないこと以外は極力やらない」


そう決めて生きているから、

なんだか合理化することが癖になって、

非効率的な行為に対する嫌悪感ばかり募る。


その要らぬ手間にやりがいを感じて、

満たされている様子の仲間がいる。


その様子を見ていると、

嫌味なしになんとも羨ましく思う。


「やりたくない」からストレスが溜まる。

「やりたいこと」ならば、

どんなに非効率でも楽しいのだろう。


世の中から非効率がなくなったら、

相当な人が職を失うことになる。


結局、社会は利権を守るために一定以上の効率化を嫌う。

きっと生活だってそういうもの、


何でもかんでもロボットがやってくれるようになったら、

「生きる」意味を見失ってしまう。


掃除や洗濯、食事に入浴、

日常に「生」の実感を見いだせないと、

やがて息を吸うことすらめんどくさくなってしまう。


便利になるのは趣味に時間を割けるくらいのところまででいい。

人はめんどくささに「生」を感じるのだ。


隠れた手間に気がつけるようになりたい。

そして、そこへの感謝を忘れずにいたい。


味を整えるための入念な下ごしらえ、

プレゼン前の足を使った地道な事前調査、

0.01秒を縮めるための血の滲むような努力、

LINEよりもあの子に思いを伝えるための下手くそな手紙、


「何でもかんでも便利になればいいというものではない」


時間を使って、

体を使って、

まごころを伝えることが「おもてなし」なのだろう。


一見すると非効率に思える作業の中に、

真摯な気持ちが宿る。


その真摯な気持ちが響くから、

人の心は動く。


「うらおもてなし」

とはよく言ったものだ。


便利になる代償として、

便利を求める代償として、

何かを失い続けていると感じるこの頃、