誰かと結ばれたいと願えば、
同じ人を好きになった誰かの不幸を願うことになる。
相対評価の成績表、
決まった採用枠、合格数、仕事の受注もそう。
自分が評価されることで他の誰かは評価されない。
いつだって、
いつの間にか、
いや自分からか、
気がつくと椅子取りゲームに参加している。
そうなると理屈は簡単、
「今ある幸せは、
誰かの不幸の上に成り立っているのかもしれない」
価格を安くするために下げられる賃金、
お客様という神様のために心をすり減らす従業員、
あの子のハートを射止めた影にある涙、
そう考えると何事も素直には喜べないな。
「共感」の幅を広げるほど、
高い人間性を認められるけれど、
それとは裏腹にどんどん不自由になってしまう。
周りの幸不幸にばかり敏感になって、
自分のそれを後回しにしてしまう。
そうなってしまったら本末転倒、
何も聖人を目指しているわけではないはず、
「どうしたら幸せになれるのか」
そのためには人と心を通わせることが近道、
だから「共感」するのだ。
あまりにも共感の幅を広げすぎると、
それが自尊心へと変化して、
手に負えなくなってしまう。
「人の役に立つことが自分の存在価値なんだ」
断じてそうではない。
周りに自分の存在価値を委ねてはいけない。
例え、それがどんなに優れたものだとしても、
あなたが何をして、
何を感じて、
どう変わったのか。
あなたにとってそれ以上に価値のあるものはない。
人の不幸を食い物にしようとすることは、
間違ったこと、
だけれども、
人の幸せのために自分を不幸にすることも間違ったこと、
誰かを傷つけることに、
鈍感になってはいけないけれど、
必要以上に敏感だと辛いことばかり、
誰かのために行動していても、
心が満たされないならば、
一度立ち止まって考えてみなければならないのかもしれない。
責任は果たすべきもの、
だけどそれ以上のことは相手の自己責任なのだから、
「あなたがいなければ生きていけないの」
そこから始まった関係に、
輝かしい未来が待っているとは思えない。
強かに、
かつ誠実に、
歩みを進めたい。
人のことはいい。
自分の幸せのために、