そんな状況が続くようならば、
それは不幸の始まり、
いや、もはや不幸なのだろう。
我慢できるうちはいい。
我慢することに使命感を感じているうちはまだいい。
だけれども、
そのことが原因で体調に支障をきたしたり、
消えてしまうことばかりを考えてしまうならば、
そろそろ限界が近いのかもしれない。
しなくてはいけない我慢はあるし、
その我慢が実を結ぶこともある。
だけれども、
我慢できる限界というものは個人差がある。
「みんな我慢しているから私も」
そういう考え方は身を滅ぼす。
我慢の理由が、
「家族を守るため」ならば、
家族でシェアすればいい。
それを、
「忙しいからそれどころではない」
そんな理由ではねつけていたら、
なんのために家族をしているのだろう。
すれ違ったら話し合い。
傷つけたら「ごめんなさい」
嬉しかったら「ありがとう」
どんなに嫌なことがあっても、
家を出るときは「いってきます」
帰ってきたら「ただいま」
そういう当たり前の積み重ねを忘れてはならない。
子供のことだって、
親のことだって、
相手のことだって、
二人で背負う覚悟をしたから一緒になったんでしょ。
それを片方だけが放棄するならば契約違反、
自分が守れていないと思うならば、
それも同じ、
犠牲になることは美徳ではない。
幸せになることが美徳であるべき、
「君と好きな人が100年続きますように」
誰かの陰の涙があって、
そのように思われて結ばれたかもしれないのに、
簡単に諦めて、傷つけあって、別れて、
そんなのは誰も救われない。
覚悟もないのに、
欲望を満たすために、
寂しさを紛らすために、
人の弱さがまた弱さを生み出す。
幸せを分け合うために一緒になったはずなのに、