不思議な魅力があって、
自分は絶望の国に生まれてしまったかのように、
そんな雰囲気で周りを飲み込んで、
自分の世界に人を引きずり込んで、
自分のやり方が正しいんだと周りに思わせるような人、
おそらく人に流されずに、
ただただ真理を探求しているのだろう。
起きている間中ずっと、
その作業に没頭するあまり、
社会生活が疎かになって、
まるで霞を食べる仙人のよう、
人間味はある。
十分なほどに、
だけれども、
社会性がまったくない。
いくら多様な生き方が認められていると言っても、
社会的な基盤がなければ説得力はない。
社会生活を営んでいるということは、
安定感があるということ、
ストレッサーにさらされながらも、
やるべきことに取り組んで、
その対価として賃金を得ることを理解しているということ、
そこからはみ出して、
いわゆる「高等遊民」のような生き方をしていても、
そこから生み出された言葉で、
「今」を生きる人達は救われない。
人の生き方は様々なので、
それを否定するつもりはないけれども、
人を惹きつけるということは責任を伴うということ、
そのことに無自覚ならば、
自覚しないといけない。
意見を求められたならば率直に述べればいい。
だけれども、
人から自主性を奪ってはいけない。
そこを履き違えてしまったらただの洗脳、
人は常に自己存在に不安を抱えながら生きているもの、
そこに安易にもっともらしい答えを与えることは、
なんとも無責任なこと、
人の期待に応えることばかりに喜びを感じる人生は、
虚しさを拭えない。
喜びを感じているうちはまだいい。
そのうちにどんなにうまくやっても喜びを感じなくなってしまう。
どんなに使えるお金があって、
名声があって、
異性を選びたい放題、
それでも自分から求めたものは、
するりと指の間から抜け落ちてしまう。
あれだけ何でもうまくこなしていた五反田くんでさえ、
最後は自ら命を絶ってしまったのだ。
上手くやることばかりが目的になってしまうと、
その先には何も残らない。
何を差し置いても夢中になれるもの、
それがあれば本人は幸せなのかもしれない。
結局、生きがいとはそういうもの、
それは手放してはいけないもの、
たとえ周りに多少の迷惑をかけたとしても、
それは自分らしく生きるために、
仕方のないことなのかもしれないな。