世の中の理、
そのことについて深く考えすぎてしまうと、
「世界は所詮こんなものか」
そう高をくくるようになってしまう。
世界をわかったような気になって、
何に対してもあまり興味がわかなくなる。
「動じない」
「落ち着いている」
「考え方がブレない」
一般的にはそれを「達観」というのかもしれない。
だけれども、
そこにかぶれてしまうと、
大きく心を動かすことが極端に少なくなる。
だから、
苦しみ半分、悲しみ半分にできても、
楽しみ半分、喜び半分になってしまう。
「心を動かしながら達観すること」
悩み、苦しみ、もがきながらも、
その先にある達成感に心を震わせて、
誰かとともに喜びや涙を分かち合って、
心を動かし続ける中で、
世の中の理を模索していくこと、
それが世界との正しい関わり方なのかもしれない。
心を動かすことを止めてしまったら、
「ただ生きているだけ」
そうなりかねない。
傷つくことを恐れるほどに、
「達観」したつもりになって、
行動力は衰える。
結果の予想が概ねついてしまうから、
そうやって、
徐々に心を動かすことを止めてきた。
感謝の伝え方はうまくなるけれども、
心は昔ほど感謝の方に向いていない。
笑い方は共感を生むための道具になり、
大げさになる一方、
そして泣くことは下手になり、
心に膿はたまる一方、
何を手に入れるために、
「心を動かすこと」をやめてしまったのだろう。
社会で生きる術か、
傷つかないための防波堤か、
それがあれば、
確かに「生きやすい」
そう思うかもしれないけれど、
生きるために生きていても仕方がないのかもしれない。
「心を動かすために生きる」
人の悪意や狡猾さに傷ついて、
日だまりの温かさに安らぎを感じて、
海の広大さに心を踊らせて、
傷ついて思い切り悲しんで、
泣くような経験をいくつ積み重ねてきたか。
そこに人生の価値はあるのかもしれない。
だから、
心を動かすことを恐れない。
何かを決めつけて、
何も行動を起こさないような大人、
そこから抜け出すことは簡単ではないけれど、
手足を動かす中で、
心は温まってくるはず、
心が温まるまで、
あと少し、