人はできるだけリスクを避けようとする。
傷ついた経験をしている人ほどその傾向は顕著、
これ以上は傷つきたくないから、
辛く苦しい思いはもうたくさんだから、
自分の居場所を確保するために躍起になる。
「ヤバいやつ」
そう判断されたら最後、
社会は容赦なく潰しにかかる。
まるで「ヤバいやつ」には、
人格など無いかのように、
執拗に、無機質に潰しにかかる。
「ヤバいやつ」
そう判断された人にだって、
心はあるはずなのに、
人間誰だってどこかしらおかしなところはある。
「ヤバいやつ」
そうレッテルを貼られると、
社会的に終わってしまうから、
そう思われないように必死で「普通」を装う。
だけれども、
その「普通」だって、
場所によって違うものだから、
いくつもの仮面を使い分けて、
場面、場面に適応しようとする。
そういうことばかりしていると、
そのうちに本当の自分がどれだかわからなくなる。
興味のない話に、
興味のあるふりをして、
面白くもない話に、
全力で笑っているふりをして、
会いたくもない相手に、
「また誘ってください」だなんて、
愛想を振りまいて、
「嫌い」って感情は、
心の奥底に押し殺して表には出させない。
「普通」ってなんだろう?
「普通」って、
自分にとっての当たり前、
それがみんなと少し違うからって、
簡単にそれまでの自分を捨ててしまっていいの?
もちろん、
自分が間違えていると思ったら、
自分の「普通」を書き換えればいい。
だけれども、
自分が間違えていると思わないのに、
大事に育ててきた自分の「普通」を、
誰かの「普通」に書き換えてしまっていいのかな。
安全なところで、
台本を読みながら、
役を演じて生きていたって、
虚しさを拭うことはできない。
そして、そのうちに、
役を演じていることにすら気がつかなくなる。
もはや自分は誰だかわからない。
心の何処かに穴が空いていると感じるならば、
虚無に飲み込まれてしまう前に、
「自分の言葉」で話をしよう。
用意されたセリフにはもう飽きたでしょ。
あなたに悪意がなければ、
人を食い物にしようとする意図がなければ、
その「自分の言葉」があなたの魅力になる。
自分の立ち位置を決めるのは、
自分の行動だけ、
「ヤバいやつ」になるか、
「魅力的な人」になるかはあなた次第、
「普通」ってなんだろう?
そう自分に問いかけることを止めてしまったら、
もはやそれは「普通」ではない。
役を演じる必要はある。
だけれども、
与えられた役を演じるだけの人生なんてまっぴら、