人は自分が体験したことを信仰している

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「あなたの信仰はなんですか?」


そう聞かれたときに、

多くの日本人は「ありません」と、

そう答えるだろう。


だけれども、

信じる度合いはともかくとして、

「信仰していること」は必ずある。


「自分が体験したこと」


人はそれを信じて生きている。


「このやり方で生きてきた」だとか、

「この人は信じられる」だとか、


もっと言えば、

「ここにお参りをしたらいいことがあったから、

 だからまたお参りしよう」だとか、


そうやって、

過去の経験を信仰して、

価値判断の基準をつくっている。


ドラマ『ラジエーションハウス』


幼馴染との幼い頃の「約束」を信じて、

富や名声を得られる立場にもかかわらず、

それを求めずに20数年間ひたすら「約束」に生きる主人公、


その「約束」が彼にとっての信仰、


「生きがい」が「信仰」の異名なのかもしれない。


だから自分の正しさを証明するために誰かを傷つけたり、

傷ついた経験を盾にして復讐に走ったり、

誰かの幸せを妬んだり、


それを「信仰」にしてしまうと、

いろんな物が壊れてしまって、

とんでもなく生きづらくなってしまう。


自分だけではなく周りの人も、


だけれども恐ろしいもので、

人は「生きがい」のない人生のほうが恐ろしいから、

それが間違っていると薄々気がついていても、

その「信仰」にすがってしまう。


自分自身の「軸」を持たなければならない。


何かに自分の人生を預けてしまえば、

どんなに大変に思えてもそれは楽なこと、


誰かの作った価値観を、

フレームワークとして使うのは構わない。

だけれどもシステムの構築は自分でやらないと、


楽して色々なものが手に入る時代、


「生き方」も同じなのかもしれない。

誰かの「生き方」は情報としてそこら中に転がっている。


だからって、

それがそのまま自分の「生き方」にはならない。

いや、できないのだ。


「人は自分の体験を信仰する」


だから体験していないことは、

心の底から信じられない。


人の「信仰」に酔いしれて、

自己の確立を疎かにしていたら、

気がついたら年だけ食ってしまっている。


一つでも多く経験を積むために、

体験を自分の命に刻むために、

より良く生きるために、

その価値判断の基準を明確にするために、


そうやってがむしゃらに生きればいい。


ひねくれていて、

疑ってばっかりで、

もうこれでいいでしょってところまでやったって、

簡単には納得できなくて、


「手のかかる子ほどかわいい」


そうして生きていれば、

自分のことを嫌いになることなんてないはず、


「生まれてきた理由」


その答えなんて、

死ぬ時までわからないのかもしれない。


いや、

死んでもわからないのかもしれない。


だから「今」この瞬間に、

心の底から湧き上がる喜びで笑顔になれること、


それ以上に大事なことなんて、

この世にあるのかな。