先日友人から言われた言葉、
真剣な話をしていたのだけれども、
あまりにも言葉遊びがすぎるので、
話しているだけで疲れるものだから、
「ごめん。もうそのことは話したくないわ」
そう伝えた。
そうすると急に不機嫌になって、
黙り込んだ。
「せっかく気持ちよく話していたのに」
そんなところだろうか。
めんどくさくなって店を出ると、
気持ちが収まらないのか、
やけに突っかかってくる。
「ごめん。ごめん」と、
適当にあしらっていると一言、
「俺に謝るよりも自分の人生に謝ったほうがいいんじゃないの?」
自分が話したいことに夢中になって、
相手が疲れ切っていることなどお構い無しで、
一方的に難しい言葉を並べて自己満足の理論を展開、
それを遮られると不機嫌になり激高する。
まるで自分が話していることは世界の真理なのだから、
ありがたく聞きなさいよとでも言わんばかり、
「こいつは駄目だ」
そう思った。
しばらく会わないと、
人って合わなくなってしまうものなのかな。
あまりにも目指すところが変わってしまったようで、
言葉以上に痛みを伴う経験だった。
変わったのは地に足ついた私のほうかもしれないけれど、
崇高なるお話はもうたくさん、
世界の真理だとか、
生と死についてだとか、
宗教やら哲学についてだとか、
「精一杯、幸せ目指して生きていればいいんじゃないの?」
知識には溺れてしまうのだ。
知識が増えるほどに苦しみは増す。
「原罪」ってその戒めでしょ。
「愚民であれ」
そうは思わない。
だけれども、
知識を得るたびに苦しみが増すのならば、
そんなものは最低限しか必要ないな。
目に見えない「救い」よりも、
目の前の「課題」
人生って、
課題が次々と出てくるのだから、
結局は自分でそれを解決するしかない。
それを乗り越えた経験ってものが、
自分の「信仰」になるんじゃないのかな。
そうやって、
辛い思いを繰り返す中で、
それを乗り越えた「自分の可能性」を信じてあげるしかない。
そして最後は、
「やりきった自分」を認めてあげて、
その過程で色々なものを手放して、
後悔のない最後を迎えるんじゃないかな。
そういう生き方がきっと、
残された人の励みにもなる。
「生死に意味をもたらしたこと」
その希望の連鎖が、
知恵の実を食べて人が手に入れた、
最高の報酬なのかもしれない。
私は私で頑張って生きている。
だから私は自分の人生に謝ったりなんてしない。