子供の頃は自然と世界が輝いて見える。
それなのに多くの場合は歳を取るたびに、
世界が輝きを失ってしまうのだ。
経験を積んで天井が見えてしまったから、
体の機能が衰えてしまったから、
立場に縛られてしまうから、
理由は様々ある。
何度も使いまわした表現だけれども、
それは確かなこと、
だけれども、
そうなってしまった世界が輝きを取り戻す方法がある。
「死」を忘れないこと、
人はいつだって、
先があると思いこんで生きている。
それってどうしようもなく不確かなことなのに、
もしも余命を宣告されたら、
しばらくは悲しみに打ちひしがれるかもしれないけれど、
残りの人生を全力で生きるだろう。
少なくとも私はそう。
立ち止まっている暇などないと、
きっとそう考える。
病気はいろいろなことを教えてくれる。
「生きる」ってことが大変なこと、
「健康に過ごす」ってことが当たり前ではないってこと、
「周りの助けがこんなにもありがたい」ってこと、
だから「死」を側に置いて、
一日の重みを感じながら生きていれば、
世界は輝きを取り戻す。
「これだけ生きたんだからもう悔いはないよ」
そうやって旅立つ人は幸せな人、
そしてそういう人を看取る人も幸せな人、
「この人なら来世は必ずまた幸せに生きられるな」
時間はかかっても最後はそう実感できるから、
原因不明の体調不良に悩まされているけれども、
私は別に命に及ぶ病気だと言われたわけではない。
(去年は「下手したら死ぬ」と言われたけれども)
だけれども、
この体調不良も何かを教えてくれている。
「すべてのことには意味がある」
良いことも悪いことも、
「人は意味を求める生き物」
だから実際のことはわからないけれども、
そうやって何でもかんでも「生きる意味」に変えてやればいい。
それがあれば「生」を実感できるのだから、
そうやってなんでも前向きに笑い飛ばして、
最後の最後まで「生」をまっとうすればいい。
そうできれば、
その生き様が周りの人の希望になる。
『「死」だって、希望に満ち溢れているんだよ。』
簡単なことではないけれども、
それを伝えられるような、
そういう生き方ができればいいな。
先のことなんてわからない。
それを目指して「イマ」を生きよう。
確かに存在する
「イマ」という時間を、
精一杯に生きよう。