「お客様のモラルに問います」
人身事故現場に居合わせて、
ブルーシートの中の状況を撮影しようとする。
「国民全員がカメラマンだから、
どこで撮られているかわからない」
どこかで芸能人が言っていた。
情報の価値は高騰するばかり、
いや、かえって値崩れを起こしているのかな。
だから刺激のあるものでないと価値を生み出さない。
それを撮ろうと躍起になる。
「プチジャーナリズム」
それをしたところで別に大した見返りはない。
電子データに人生を預けて、
その数字の大きさが自分の価値、
自己啓発に活かす方向性で、
少し前からよく目にする言葉、
数字の積み重なりには中毒性がある。
だから人はゲームに夢中になるのだ。
リアルでは努力が成果につながるとは限らない。
だけれどもゲームの世界では、
努力が成果につながりやすい。
だから夢中になる。
プチジャーナリズムの病理も同じ、
貴重で刺激的な情報を提供すると、
数字が増える。
そうなると、
世界に自分の居場所を見つけた気になる。
だから止められなくなる。
ブログだってそうだ。
読者数、アクセス数、スターにブックマーク、
収益を目指している人もいる。
数字が増えるからモチベーションになる。
それが悪いことではないけれども、
行きすぎてしまうとモラルを差し置くようになる。
認められるためならば何でもする。
自分の居場所が不確かだから、
認められるためならば人のことはどうでもいい。
自分の居場所を守るために必死だから、
そういうことをしていると、
世界から認めてもらいたいから情報を発信するのに、
世界から叩かれては居場所を狭めてしまう。
何とも皮肉なもの、
「不正を暴く」
ジャーナリズムへの熱意って、
そういうことを覚悟を持って報道することだったはずだけど、
それがプチになってしまうと、
覚悟なんて置き去りにして功名心ばかりが先走る。
「人としてどうなのか」
一度立ち止まって、
そういう視点で見てみないと、
もはや機械と変わらない。
反射的に写真や動画を撮るようになって、
反射的に投稿して、
反響を分析して次に備える。
自分の価値ってどこにあるのだろう。
人から認められることでしか、
自分の価値を信じられない。
想像力が欠けてしまうと、
人のことを自分の欲望を満たすための道具にしか、
見ることができなくなってしまう。
そんな人間にはなりたくないな。