手に取る機会があり読んでみた。
著者は私と同世代、
他の作品を読んではいないけれど、
「これは」と思った。
「言いたいことを代弁する」
その意味で世代の旗手として力を見せつけた作品、
設定がとてもうまい。
28歳、無職の主人公、
要介護で「死にたい」が口癖の祖父と同居、
母は実父である祖父を蔑ろにしている。
主人公は自分を再構築するために努力を重ねている。
だいぶニヒルなくせに、
「自分を高めようとしない人間は無価値」
そういう信念のもと生きている。
祖父と大して歳の変わらない、
クリント・イーストウッドに尊敬の念をいだきつつ、
「死にたい」が口癖の祖父と、
「私なんてブスだから」が口癖の、
「とりあえず」付き合っている小太りの彼女に対して、
抑えがたい嫌悪感を抱いている。
そんな意識高い系なのに、
設定は敢えて「無職」の主人公、
そこに凄みを感じる。
面接に落ち続ける主人公、
努力を重ねても社会的に認められるとは限らない。
「医療費」と言う形で、
老人を無駄に延命させるために、
社会から無自覚に搾取され続ける若者たち、
リターンを望めない、
今を自転車操業するための年金、
無職ながら律儀に払ってきたけれど、
馬鹿らしくなり払うことをやめる描写、
30歳前後、
「まだ先に進めるかもしれない」
「そろそろ身を固める時期かもしれない」
「社会と自分」
そのことについて向き合うと言う意味では、
最も多感なお年頃、
そして「若者」といえる最後の年代、
少なくとも無自覚ではない、
小賢しい若者から見た社会構造の歪さを鋭く抉り出す。
祖父に対して度を超えてイキり出す主人公、
「大丈夫かこいつ」と思ったが、
最後に救いがある。
役割があることで祖父に居場所をもらっていた。
そして祖父は自分が思うよりもずっと、
「生」にしがみつき周りに感謝していた。
自分のちっぽけさを知ることは「救い」
タイトルが秀逸、
これを1つの物語として、
これ以上ない形で表現している。
本来は前向きな意味、
「効率化」の象徴として使われる単語、
だけれども本作では、
「サイレントマジョリティー」
「社会を再構築してほしい」という、
若者たちの声にならない叫びなのだろう。
「死にたい、死にたい」って、
何をするでもなく生きるために生きる老人、
(表向きはそう見える)
そのために湯水のごとく使われる税金、
そういうのに、
若者たちだって気がついているよ。
ただ多くの場合は力がない。
力があっても自分のためにしか立ち上がらない。
日本って、
そういう国になってしまったのかな。
もう5年くらい前の作品、
5年経って変わったことは、
男性社員は育休を勧められるけれど、
取ったところで戻ってきたら居場所はない。
女性社員はこぞって産休、育休を取り、
当たり前のように「復帰するかは定かではない」という。
その間、給与の6割は保障されるという。
「自分の身は自分で守るしかない」
もうみんなそうなってしまったよ。
だから社会を変えようだなんて誰も思わない。
若者たちは搾取を受け入れて、
「自分で考える」と言う手間を手放した。
娯楽は世界に溢れているものだから、
興味のあることだけをして楽しく過ごしていればいいのだ。
「諦めることに慣れてしまった」
手に入らないものはたくさんあるけれど、
それに近いまがい物もたくさんある。
自分にはまがい物で十分、
ほどほどに幸せならばそれでいいじゃない。
「飼いならされているな」
どうやらいつの間にか、
社会に飼いならされてしまったようだ。
もしかしたらそう見えるだけで、
心のうちはどうなのかわからないけれど、
なんだか鈍く、
ほんとに鈍く、
ほんの少しだけ、
だけれども、
芯に響くように、
やる気を起こさせてくれた。
そんな作品、