命にかかわるほどのものではないけれど、
父がしばらく入院している。
父に対していつも口うるさくやかましく、
文句ばかりを言っている母、
そんな母、
この前、帰ってみると、
「家にお父さんがいないと寂しい」って、
そうこぼしていた。
何年、何十年経ったとしても、
一緒に生活していれば気に障ることもある。
合わないこともある。
だからいつも口やかましくして、
時には何日も口をきかないこともあって、
だけれども、
お互いがそれを必要としている証拠なのかもしれない。
ある意味で言葉のスキンシップ、
お互いの存在を確認しているのだ。
相手に興味がなかったら、
文句も出てこないでしょ。
だから、
「愛があるんだな」って、
そう思った。
愛にも色々ある。
関係性はもちろん時とともに変わるだろう。
だけれども、
口やかましくしながらも、
自然と一緒に居続けられる。
何年も何十年も、
それにはお互いの努力が必要なのかな。
「婚活」ってやつ、
条件ばかりでお互いを判断するから、
少し嫌ところがあるとすぐに途切れてしまう。
それでは関係を深める余地なんてない。
「嫌いなところも愛せる」
そう思っていなくても、
気が付くといつの間にかそうなっている。
そういうのが、
「愛がある」ってことなんじゃないかな。
「恋」に恋したり、
「結婚」というものに恋したり、
相手がいないことの不安に押しつぶされそうになったり、
時にはその場限りの相手で不安を紛らわせたり、
そういう弱さに逆上して、
「不誠実だ」と目くじらを立てる私、
不誠実な女に対して、
過ちを懺悔し続けて、
不幸になればいいって、
そんなことを願っている。
一度は「好きだな」と思った相手に対して、
そんなことを思い続けている。
「そこに愛はあるんか?」
大地真央さんに一喝されそうだ。
「目の前の一人に誠実であり続けたい」
そういう看板を掲げて生きている。
人って弱いもの、
その「弱さ」まで含めて、
「いいよ」って包み込んであげられる。
そこを試されているのかな。
本当に好きになった相手には、
自然とそういうことができるんじゃないかな。
私には人を愛する資格がないのだ。
「裏切られてばかり」って、
被害者意識を持ち出して、
自分を愛することができていないのだもの、
自分の弱さを認めてあげる。
そういう基本的なことができていないのだもの、
大事そうに掲げている、
その看板を降ろしてさ。
思い切り自分を甘やかしてあげれば、
いいんじゃないのかな。
そんなロボットみたいに完璧な女性なんていないよ。
自分だってそうはなれないよ。
「弱さ」だってその人の魅力、
愛すべきもの、
人間だもの、
ますを