『わたしを離さないで』を読了、
洋画作品として映画化され、
日本でもドラマ化された。
少年ジャンプで連載中の『約束のネバーランド』の元ネタとの噂がある。
臓器提供のために生み出された、
クローン人間の少年少女たち、
ヘールシャムという人道的教育を施す施設で育ち、
幼い頃から事あるごとにその「使命」について聞かされて生きてきたけれど、
それがどういうものなのかは理解が追いつかない。
人道的教育を施すべきか否か。
それについて思惑をぶつけ合う大人たち、
そうとは知らず、
伸び伸びと育った彼ら、彼女らは、
外に出てから他の施設との違いを知る。
教育というべき代物すら受けられずに、
どこか厭世的で自嘲気味、
その場限りの楽しみに溺れ、
人道的教育を受けたヘールシャム出身者を妬む。
その重圧から自分をよく見せようとする少女と、
それに振り回される少年、
そしてそれを見守る物語の語り手となる主人公の少女、
「自分は何者なのか」
「何のために生まれてきたのか」
そして三角関係に揺れる思い。
将来の夢について語り合う子供たち、
だけれどもその夢は決して叶わない。
人の代替物という目的のために作られた存在だから、
人間存在の本質を問いかける作品、
誰かを救うために生み出された命、
だけれども命だ。
それぞれに人格がある。
感性がある。
そして夢や希望を抱く。
ある意味で戦時中の命って、
これと同じなのかもしれないな。
戦国時代だってそう。
命が誰かの道具になっている。
むしろ人類の歴史を紐解くと、
そういう時代の方が長かったんじゃないかな。
「命は大事なもの」
それを当たり前に主張する現代の方が、
歴史の上では特異なのかもしれない。
自ら命を立つ人が絶えない。
そんな時代、
「命の使い道を自分で決めないといけない」
そういう重圧に耐えられないんじゃないのかな。
これまでの人類の多くは、
やるべきことをたくさん与えられて、
自分の時間を捻出することすらできなかった。
教育を受けて、働いて、結婚して、子供を育てて、
それを当たり前のようにして生きて、
歴史は紡がれてきた。
今は「多様性」を重んじる時代、
だけれども「多様性」にはコストがかかるのだ。
生き方をゼロから自分で探さないといけない。
必死で見つけた道を引き返すしかなくて、
途方もないくらいに傷つくこともある。
誰かの道具になっていた方が、
幸せなのかもしれないな。
人類はそうやって時を重ねてきたのだ。
目的のために生み出された子供たち、
具体的な年齢は描かれていないけれども、
おそらく二十歳そこそこで、
複数回にわたる臓器提供という「使命」を終えて、
その命を終える。
「悲劇」のような書き方はされていない。
あくまでも「問いかけ」なのだ。
これから先の社会は、
「命を生み出すこと」について、
どう折り合いをつけて進んでいくのだろう。
「命は尊いもの」
だけれども、
「自分」と「目の前の一人」
その「命の重さ」に違いはあるのかな。
そして、
短くても目的のある人生を全うする方が、
目的を分からずに彷徨い続ける人生よりも、
幸せなのかな。
色々なことを考えさせられた作品だった。