おそらくこの作品は、
村上春樹氏の長編作で、
最も知名度の低いものだろう。
テーマはとても複雑だ。
「自分の人生を生きること、
そしてそれに責任を取ること、
そしてその先に待ち構えているものが虚しく、
夢や希望というものは誰かが演じる役割の先にある幻想に過ぎないということ」
主人公は何一つ不満のない、
幸せな生活を送っている。
社長令嬢でありできた妻と一緒になり、
二人の子宝に恵まれて、
義父から援助を受けて始めた、
2店舗のジャズバー経営は順調そのものだ。
しかし忘れられない過去が2つある。
12歳の時まで、
どうしようもなく惹かれあった女性と、
すれ違いの末に会えなくなったこと、
そして学生の頃に付き合っていた彼女を、
自らの裏切りによって、
人生を壊すくらいに傷つけたことだ。
37歳になったある日、
突如、経営する店に、
どうしようもなく惹かれあった女性が現れる。
25年ぶりに会った彼女は告げる。
「あなた以外の人を好きになったことはなかった」と、
そこから始まる葛藤、
一目会ってしまったその瞬間から、
「幸せ」だったはずの日常は色あせてしまう。
妻でも二人の娘でもない。
熱心だった店の経営にも熱が入らない。
彼女のことしか考えられないのだ。
しかし、彼女は大きな傷を抱えている。
そしてその傷を受け止めることは、
「心中」を意味する。
それでも彼女のために全てを捨てる覚悟を決める主人公、
しかし一夜を過ごして目が覚めると、
彼女の存在した痕跡は、
霧のように跡形もなく消えていた。
再び彼女を失った欠落感に沈む人生、
そんなある日、
彼女の幻影を見つけて車を飛び降りると、
昔裏切った元カノと顔を合わせることになる。
元カノの顔からは、
表情というものが全て奪い去られていた。
主人公を責めるでもなく蔑むでもない。
ただ全くの無表情から注がれる視線、
「いつだって見られていたのだ」
そんな予感に吐き気を感じてうずくまる。
元カノを損ない、妻を損ない、どうしようもなく惹かれあった彼女を損ない、
自分は誰かを傷つけるつもりではないのに、
どうしたって傷つけてしまう。
そんなカルマに打ちのめされた。
その経験から全ては流されてしまった。
彼女の幻影も、欠落感も、徐々に薄まっていく。
「人は砂漠で生きている。
でも本当に生きているのは砂漠なんだ」
意思の力ではどうしようもないことだらけで、
結局はペルソナを使い分けながら、
与えられた役割を演じているだけ、
どんなに大きく悩んで葛藤して、
生を全うしようと足掻いても、
人しれず大いなる何かに飲み込まれていく。
そこで初めて妻と向き合う。
「私がどれだけ傷付いたかわかる?」
その一言から始まる話し合い。
「君と別れたくない」
お互いの傷や弱さをさらけ出して、
そこから始まる新しい生活、
誰もが抱える欠落感、
役割を演じることでそれを埋めようとする。
演じ続ければ満たされるんじゃないかって、
その隙間を埋めることができるんじゃないかって、
だけれども欠落感自体が自分自身、
どんなにうまく役割を演じたところで、
その欠落感を手放すことはできないのかもしれない。
それでも与えられた役割を演じるのだ。
誰も見ていなくても、
自分は自分に当てがわれた役割を演じ続けるのだ。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で芽吹き、
『ノルウェイの森』で熟成され、
『ダンス・ダンス・ダンス』で救いを求め、
『国境の南、太陽の西』に至り、
『ねじまき鳥クロニクル』で決着する。
この変遷から著者の葛藤する様を、
みずみずしく感じることができる。
言い方は悪いかもしれないが、
これより後の村上作品はおそらく道楽だ。
読み物としては確かに面白い。
だけれども言い回しを変えただけの焼き直しばかり、
『ねじまき鳥クロニクル』までに、
村上春樹氏は作家としての役割を果たしたように思う。
あとは気のままに好きに書いているのだろう。
単行本の発行日で見るとちょうど10年だ。
映画『風立ちぬ』で語られた、
創造的な人生の持ち時間と同じ期間、
「命をすり減らして描いた作品たち」
河合隼雄氏との対談で、
それを色濃く感じることができる。
濃密にして、
テーマを変えて「人生」を問うてくる作品群、
おそらく私が生きているうちに、
何度も読み返すであろう、
バイブルと言えるものたち、
満たされない。
だけれども満たされたい。
そのために誰かを傷つけてしまう。
自身の暴力性と向き合う。
うまく折り合いをつけながら、
大事なものだけはどんな手を使っても掴み取る。
強くないと器用でないと、
痛みに鈍感にならないと、
望むようには生きていけない。
それが人生ってものなのかな。