ドラマ『知らなくていいこと』
その中で不意に出てきた言葉、
既に手に入れた「幸せ」のことを、
人は「幸せ」だと思えないのかもしれない。
手に入れてから時が経てば経つほどに、
その「幸せ」に慣れてしまうのだ。
悩みは尽きない。
一つ解決したところで、
また次の悩みが顔を出す。
そうやって、
悩みを追いかけて、
悩みに追いかけられるのが人生なのだ。
「可哀想、可哀想、
私はなんて可哀想なのかしら」
悩みに追いかけられて、
逃げ場を失ったものだから、
塞ぎ込んで、現実と向き合うことをやめて、
ただただ自慰に耽る。
それが不幸の始まり、
悩みのあることが不幸ではない。
悩みに押しつぶされて、
自分で自分を「不幸」に仕立て上げるのだ。
「不幸」に浸っていれば、
慰めの言葉の一つでもかけてもらえるかもって、
顔を覆った指の隙間から周りの様子を伺っている。
それでも相手にしてもらえないと、
誰かに聞こえるように大声で泣き喚く。
「可哀想な私」
立ち直るまでの居場所にするのは構わないけどさ。
そこを拠点にしてしまったら、
惨めな人生しか待っていないよ。
人の不幸話なんて一度聞けば十分、
初めは親身に聞いてくれていても、
同じことを聞くたびにうんざりするようになる。
そういうものだ。
人はいつまで経っても無い物ねだり、
科学技術の発展で、
世界の距離が近づいてしまったから、
上を見れば欲望は際限なく広がっていく。
「夢を持つな」とは言わないけれど、
「夢を持て」とも安易には言えない時代、
掲げた夢の先にあるものって、
本当に幸せなのかな。
「好きで好きでたまらない」
そういうことならば、
時間の許す限り続ければいい。
それが正しい持ち時間の使い方、
「夢中になれること」は、
それがそのまま「生きがい」に変わる。
生きていく上でとても大事なこと、
だけれども、
人は変わるものだ。
どれだけ夢中になっていたことでも、
うんざりするくらいに嫌いになることもある。
そうなってしまったらきっと、
それを続けたところで、
いつまで経っても「幸せ」は見えてこない。
「夢中になれること」
時を忘れて夢中になるから、
きっとその時の自分が幸せだってことに気がつかないのだ。
「幸せの正体」って、
夢中になれるものの尽きない人生、
「夢中になること」そのものなのかな。
だから安定した幸せを手に入れても、
それを徐々に「当たり前」に変えて、
また新しい幸せを探そうとする。
「夢中になれるもの」を求めて、
「もういいや」って、
「もう十分」って、
「夢中」を追いかけ続けた先に訪れる、
そんな素敵な人生の終わり、
「幸せ」って、
「夢の先」にあるわけじゃない。
「夢の中」にあるんじゃないかな。
だからいつまで経っても手に入らないのだ。
人はいつだって「幸せ」に気付くことができないから、