長い時間をかけて作り上げてきた。
「自分のやり方」という名前の「システム」
私なりに価値観をアップデートしてきたつもりだ。
だから「常識」だとか「一般的」
必要以上にそういう言葉に縛られることは少なくなったけれど、
どこまでいっても「システム」からは抜け出せないのだ。
「嫌悪」によって、
「怒り」や「憎しみ」は生じる。
「こうするべき」
「こうあるべき」
そういう言葉を避けることで、
「システム」を拡張してきたけれど、
いくら拡張したところで、
私の作り上げた「システム」であることに変わりはない。
私の根底には、
私が私であるための「核」があって、
それを礎にして、
「自分のやり方」というシステムを組み上げている。
その「核」は私自身、
おそらく「無意識」と呼ばれるもの、
それは簡単には手出しできないもの、
「三つ子の魂百まで」というけれども、
生まれ持った性質、
生まれた環境によって左右されるもの、
そういうものってあるのかもしれない。
結局、私の中にある理想や信念、
そういうものが私を支配している限り、
私は「べき論」から抜け出せないのだ。
歩み寄る努力によって、
互いを尊重することは可能だけれども、
心の中までは変えられない。
そして我慢するようになる。
そうした結果、
イライラやモヤモヤに囲まれて生きるならば、
そんなものを大事を抱えていないで、
もっと自由に生きればいい。
人と会う機会が極端に減ったけれど、
それで自由を感じるのならば、
きっと今までの生活におかしなところがあったということ、
今回の騒動はそれに気が付くチャンスでもある。
何の不満もなくて、
何一つ不快にならない。
そんな関係はありえない。
個々の環境で育まれて、
それぞれに理想や信念が生まれて、
「自分のやり方」って名前のシステムを作り上げている。
誰かと一緒になるって、
そのシステムを再構築しないといけないのだ。
同じ時を過ごしてきたわけではないのだから、
システムをそのまま流用するなんてできない。
理想や信念、
そういうものを徐々に差し出しながら、
スポイルされて生きる。
どんなに「自分」を殺しても、
どこかで「自分」は生きていて、
イライラやモヤモヤは澱のように溜まっていく。
そして徐々に歪みが生じる。
それでも自分を殺し続けていると、
神経がおかしくなってしまう。
「こうするべき」
「こうあるべき」
私から生まれるそういう感情を、
ここしばらくは嫌悪してきたけれど、
その中にこそ「私」の本質があるのかな。
「価値観が劇的に変わるような出来事」
これまでに思い当たる限り、
2度ほど経験しているけれど、
それでも私の「核」たる部分はそう変わらない。
だから積み上げるしかないのだ。
たとえ土台が不安定であっても、
今あるものの上に積み上げるしかないのだ。
どんなに割り切ったつもりになっても、
土台は変わらない。
言葉や態度を変えることはできても、
心まで変えることはできない。
「大人の対応」というオブラートで包み込んだところで、
「嫌い」なものは「嫌い」だし、
イライラもモヤモヤも出所は自分自身、
変わったように見えても、
変わったつもりになっていても、
どんなに言い回しを穏やかに変えても、
これまでの人生を捨てることはできない。
どんなに大人しく黙っていたところで、
これまで過ごした時間や経験、
それによって作り上げてきたシステムが雄弁に物語る。
結局は本質的なところで、
人は「べき論」から抜けだせないのだ。