「一億総活躍社会」だとか、
「ダイバーシティ」だとか、
「セクシャルマイノリティ」だとか、
今の社会はやたらとマイノリティにスポットを当てて、
それをあたかも「社会の総意」のように扱う。
人は知らない世界に興味を持つから、
そういうものを扱うと数字につながるのだ。
「生きづらさ」
私もマイノリティな面は随分とある。
誰だってそうだろう。
そういうのって、
「個性」であるし、
ライフサイクルの一つなのだ。
当人だって多くの場合は、
奇異な目からの気遣いを望んでいないし、
一時的なものであれば、
のど元過ぎれば熱さ忘れてしまう。
特別扱いしすぎなんじゃないの?
「人とは違うのかも」
報道が過熱することによって、
かえって当人も不安になる。
アメリカはもともと「人種のるつぼ」
それに倣って日本は遅れているって、
危機感を煽ってさ。
文化が違うのだから、
価値観が違うのは当たり前だ。
「多様性を認めましょう」
当人たちはよろしくやっているよ。
それぞれでコミュニティを作ったり、
自身の課題として向き合ったりして、
うまいこと生きているよ。
それって同調圧力なんじゃないのかな?
かえってマイノリティを道化にしている。
この人たちは配慮の必要な「社会的弱者」なんですって、
そういうのって、
逆に差別なんじゃないかな。
ある妊婦さん、
「無理な時は休みますから気にしないでください」
周りが過剰な気遣いをして、
かえって気疲れをしてしまうらしい。
本人は無理のない範囲で働きたいのに、
「親切の押し売り」
ある中年で独身の童貞こじらせ男さん(わたし)
「相手はいるんですか?」
「結婚する気はないの?」
「結婚っていいものだよ」
放っておいてください。
結婚したくてもできないのです。
これはマイノリティに対する親切の押し売りなのか、
「結婚したほうがいい」って価値観の押しつけなのか、
どうも微妙なところだけど、
もっとフラットに見るのがさ。
本当の意味での「多様性を認める」ってことじゃないの?
「特別な人」って見られたらさ。
そりゃ当人も身構えるよ。
「自分は人とは違うんだ」って、
身構えなくてもいい社会ってのが、
目指すべきもののはずなのに、
当人も周りも身構えることを強いるような報道ばかり、
情報って偏る。
知りたい人はどんどん調べて知識をため込むけれど、
興味のない人はとことん興味はない。
だから報道すればするほどに、
マイノリティに対する偏見が浮き彫りになる。
それにより同調圧力が生まれる。
きっとそういうもの、
「声にならない声」
それを世に届けるのが政治の仕事であり、
ジャーナリズムの本質だ。
間違っちゃいないけどさ。
人気取りや数字のために使わないでよ。
声の大きい人がそれを叫ぶほどに、
マイノリティの居場所は奪われるのだ。
もう一度書くけれど、
「マイノリティ当人が身構えなくてもいい社会」ってのが、
目指すべきものなんじゃないかな。
今回の騒動みたいなときは、
日本人の同調圧力の強さって、
かなりの強味にもなるんだけれども、
どうにも極端だ。
「右向け右」「左向け左」
「どうして左を向いてるの?今は右を向く時でしょ?」って、
そんな感じ、
私にすれば、
「真ん中はないの?」って、
そう思う。
放っておくことも優しさなんだよ。
「大丈夫?」
「無理していない?」
いい人に見られたいのはわかるけどさ。
いや本当にいい人なんだろうけどさ。
そればっかりに命懸けていると、
当人が「声を挙げる」勇気を奪うことにならないかい?
そんなことを言うと、
人気取りのために当人が「声を挙げる」ように仕向ける、
そんな政治家さんが出てくるのだけれど、
結局はそういうのって、
人を道具として見ているのだ。
病理は全てそこにある。