「生きる力」というものは、
個によって大きく差の出るものなのだろうか。
ずいぶん昔に記事にした、
「抑うつリアリズム理論」ってやつ、
もう2年近く前のものだ。
その時の私は「知るか」と一蹴している。
だけれども、
生まれたときには「生きる力」に個人差はなくて、
現実を知るたびに徐々に気力を損なわれていく。
そういう考え方をすれば、
あながちこの理論は間違いではないのだろう。
難しいことを考えれば考えるほどに、
将来への希望を見出せなくなる。
「案ずるより産むがやすし」
多くの物事はその通りなのだけれども、
行動を制限されて考える時間ばかり増えると、
思考の迷路に迷い込んでしまう。
先日記事にした二階堂奥歯さん
彼女は生きてきた日数よりも多い冊数の本を読んでいたらしい。
その結果、
「ここまで苦しい思いをして生きるに足る理由がない」と結論付けて、
若くして自ら命を絶った。
なんだか今の私はおセンチなのかな。
「労働者に考える時間を与えない。余計な知恵をつけるから」
古代ギリシャかなんかの方針だったと思うけれど、
「使われる側」
そういう立場で多くの人が生きてきたのが、
人類の歴史なのだろう。
それから時を重ねて、
現代は飛躍的に「自立」を求められるようになった。
自分で考えて、
自分で手足を動かして、
自分で生きる道を見つける。
少しネットにつながれば、
成功者の体験談は腐るほど出てくるし、
そういう人達はあたかも扇動するように持論を振りかざす。
選択肢は何百倍にも広がったのだ。
だけれども選択肢を選んだ先は自己責任、
ネットの世界、
だれも責任など取ってはくれない。
だから「自立」のために、
各々が興味のある情報にアクセスする。
どこかで聞いた話だけれども、
直近2年間で生まれた情報量が、
これまで人類の蓄積してきた情報量の90%を占めるらしい。
「昔はゆっくりと時間が流れていた」
そりゃそうだろう。
触れる情報量が違う。
情報に触れるたびに、
脳は取捨選択を迫られるのだ。
おそらく脳の構造は100年前と大して変わらないのに、
情報のシャワーを浴びて、
それを処理し続けて、
常に時間に追われて生きている。
だから「マインドフルネス」だとか、
ある意味では「ワークアウト」や「ランニング」
そういうものに夢中になるのだ。
我々は進みすぎているのかもしれない。
子供は子供であることを放棄させられて、
「甘えるすべ」を知らないまま大人になる。
「アダルトチルドレン」ってやつだ。
大人は大人で、
大人になれないまま親になり、
「居場所」を確保すること以外に興味はなくなる。
そうしてそんな大人が子供を育てる。
悪循環ってやつだ。
通勤電車に揺られる様は、
まるで狭い水槽の中で養殖されている魚みたい。
一様に死んだ目をしていて、
口をパクパクする代わりに下を向いてスマホを眺めている。
もはや、記号の集まりだ。
自分以外の人を人と思う余裕すらないのだ。
「画面の先にある人間関係」
そればかりが肥大化して、
人の痛みに対して鈍感になる。
「人の生」に対して鈍感になると、
「自分の生」に対しても鈍感になる。
いまの高齢者ってさ。
人にもよるけれど「長生きしたい」って、
「生」に対する確かな欲求を感じる。
もちろん健康ありきなのだけれど、
だけれども、
我々や下の世代が年を取った時に、
同じように「生」への欲求を持ち続けられるのかな。
なんだか私はそう思わない。
早くにこの世のことを知った気になって、
達観した気になって、
必要以上に「生」にしがみつかなくなっているような気がする。
そう感じるのは私だけだろうか?
それって「生物」としては間違いなく退化だ。
だけれども苦しみから解放されるという意味では進化なのかな。
人類はいったいどこに向かっているのだろう。
「抑うつリアリズム理論」
2年前は「終末思想などくだらない」と主張していた私、
どうやらだいぶおセンチなようだ。
早く人のぬくもりに囲まれながら、
たくさんのぬくもりに触れながら、
生活をしたいものだ。