「理想の自分」と「現実の自分」
人生の大半はそのギャップに苦しむ期間だ。
1999年に公開された問題作、
公開当初は決して話題だったわけではない。
DVD化されてから徐々に口コミで広がって熱狂的な支持を得たらしい。
「人生で一番影響を受けた映画」
そのように評する人も少なくない。
ブラピの出世作の一つだろう。
冒頭の印象はタイトルからかけ離れたもの、
不気味な始まりから、
徐々に引き込むニヒルな世界観、
それをぶち壊すような出会い、
そこから物語は急速に進んでいく。
「お前はモノに支配されているんだよ!」
資本主義社会に一石を投じるかのような、
痛烈なメッセージ、
「雄としての本能を呼び覚ませ!」
そんなバイオレンスな作品だ。
私はいつものAmazonプライムで見たけれど、
「こんなの地上波で放送できるのかな」と思って調べたら、
どうやら一部修正して放送したことがあるようだ。
最後のサブリミナル、
一瞬だけ映し出される映像、
完全にアウトだ。
人は「豊かさ」を手に入れる代わりに、
失ったものがある。
一度、立場を手に入れたら、
あとは現状維持を続けていればいい。
それも簡単なことではないのかもしれないけれど、
「不自由のない生活」
それを守るためにどんどん保守的になるのだ。
そういう立場が長くなると、
どんどんスポイルされてしまって、
自分の頭で考えることをやめてしまう。
誰かに与えられたものにしがみついて、
それをそのまま「自分の価値観」として取り入れて、
「地位」や「肩書」に「所有物」
価値判断の基準はそういうものに偏って、
人の本質に目を向けることを止めてしまう。
そうなると、
「人」は「記号」に変わる。
目の前の相手を「ラベル」でしか見られなくなる。
「人」を「人」として見られなくなったら、
「人として終わり」だよ。
もはや「人間」の形をした別の生き物、
自分の「居場所」を守るために、
周りがどうなろうが関係ない。
それどころか平気で利用する。
そんな「モンスター」なのだろう。
生身の触れ合いによって、
人は目の前の相手が熱を持っていることを知る。
「拳で語り合う」
そういうものってあるのかもしれないな。
その作業の中で共有できるもの、
「痛み」を与えることで得られる快感、
「痛み」を受けることで得られる快感、
どちらも快感なのだ。
それにより「自尊心を満たす」と同時に、
「生きている実感」を得られるのだから、
作中、
殴り合っていた二人は、
それが終わると互いを称え抱き合う。
「どこか満たされない」
モノに囲まれて、
物質的に豊かになっても、
どこか満たされない。
誰もがそういう思いを持ちながら、
生きているのかもしれない。
人はあまりにも満たされないと、
狂気に走ることがある。
もしかしたらこの社会には、
きっかけさえあればすぐにでも狂気に染まる、
そんな土壌が出来上がっているのかもしれないな。
「ファイト・クラブ」
一人の男の作り上げたそんな「きっかけ」で、
世界中が狂気に染まる。
そして男は自分が狂気に染まっていることにすら気が付かない。
気が付いた時には手の施しようのないことになっている。
だけれども、
失う寸前で守ることのできた道徳と愛する女性、
最後は自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「これからはすべてうまくいく」って、
「倒壊するビル群」
どう考えても手遅れで、
世界は狂気に包まれてしまったのに、
「世界は終わってしまった」
いや、これからは、
「モノに支配されない」
そんなバイオレンスな世界が幕を開けるのだ。
そんな締めくくりだった。
20年以上前の作品だ。
そこからの20年で、
人はさらにワークアウトやランニング、
マインドフルネスに興じるようになった。
それって根源的には、
「生きている実感」
そういうものを求めている。
「生かされている」のではなく「生きている」
そんな実感を求めている。
「果たしない欲望」の先にあるもの、
どんなに理性で覆い隠しても、
人だって生き物なのだ。
死から遠ざけられ過ぎて、
本能は「死ぬような体験」
そんなスリルを求めているのかもしれない。
さすが問題作だ。
命に突き刺さる、
そんな命題を浮き彫りにされた気がする。