先日記事にした、
原作は少年サンデーで連載され、
長期の休載を経て昨年末に完結した。
アニメの方は原作の一部のみを描いている。
実写映画化までされている。
テーマは「命の尊さ」
青春の甘酸っぱさと相まって、
「じーん」と来る物語を紡ぎ出す。
北海道の山奥にある農業高校が舞台、
進学校に通っていた主人公は受験戦争に嫌気がさし、
逃げるように目的なく本校に入学した。
不器用で「断れない男」
秀才で卑屈なところはあるが、
見た目とは裏腹に根性があり仲間思い。
とても味のある主人公だ。
高校で出会う数々の仲間、
多くは家業を継いだり、
農業に関わりたいという確たる目標を持っている。
高校生にして厳しい現実に晒されて、
農業で生活することの大変さや、
命の重さを突きつけられる。
「飽食の時代」
我々は口にするものがどこから来て、
どのような経緯で店頭に並ぶのかを知らないし、
それを知る機会もほとんど与えられない。
「生きるため」
それだけを切り取れば、
深くを知る必要はないのかもしれない。
だけれども、
「命」と向き合いながら働く人たちがいる。
そして我々はその「命」を口にしているのだ。
その事実は変わらない。
「知らなくていいことなど何一つない」
先日記事にした、
吉本ばななさんの『哀しい予感』
そういうテーマの本を読んでから、
何気なく通り過ぎる物に目を向けてしまう。
世の中には、
知らなくても生きていけることがたくさんある。
その全てと向き合うことはできないけれど、
知ることで広がる世界はある。
その中で印象的なシーンがあった。
都会でOLをする主人公、
年に一度だったか、
田舎で親戚の手伝いに農作業をするのが楽しみだった。
その度に軽はずみに口にする、
「良いところですね」って言葉、
「農家の嫁に来ないか」って、
そんな現実を突きつけられたときに、
自分のその軽はずみな言動を酷く恥じる。
「私にはそんな覚悟はなかった」って、
「毎日の仕事にする覚悟はなかった」って、
「観光気分で来ていただけだった」って、
人の命は「晴耕雨読」で満たされる。
だけれども「命と向き合う」って大変なこと、
「自然と関わること」を生業とするって、
遊びでできることではない。
「デジタル」に懐疑的になっていた。
自然に身を投じたり、
体を動かしたり、
人との触れ合いやらぬくもり、
そうした熱に満たされるって、
ここ最近の私の考えはそっちの方向に傾いていた。
「晴耕雨読」になんて、
かじる程度にしか触れていないくせに、
結局はアニメで「デジタル」なんだけれど、
なんだか「自然に触れたいという欲求」
そういうものを呼び覚ましてくれた作品、
人が社会を作り出して、
食物連鎖の頂点にいるってのは、
思い上がりなのだ。
人も生かされている。
とんでもない奇跡に包まれながら、
少し前のドラマ高橋一生さんが主演した、
『僕らは奇跡でできている』
それがそんなテーマだったな。
『銀の匙』
「食うに困らない裕福な生まれ」
そういう意味があるらしい。
同名の中勘助さんの小説は一度読んだことがある。
「食うに困らない」
現代人の多くはそんな裕福さを、
自覚なく享受しているのだ。
その先にあるものに目を向ける機会すらなく、
だから「命」を軽率に扱うようになる。
「牧歌的」そのままにほのぼのとしながらも、
そんな病理を浮き彫りにするような作品、
連載終了して、
おそらく続きがアニメ化される期待は薄いだろう。
「原作の漫画を最後まで読みたいな」
そう思うくらいに心に響く作品だった。