「好き」が「嫌い」に変わるのは簡単だ。
だけれどもその逆は簡単ではない。
人は脅威に対しては身構える。
だから一度「存在を脅かすもの」
そう認識してしまうと、
その評価を覆すには余程のことが必要、
「好き」
その感情の根っこにあるもの、
「居心地がいい」だとか、
「居場所を与えてくれる」だとか、
「存在を認めてくれる」だろうか。
自己存在を他人に委ねる。
「居場所を与えてくれる誰か」
「存在を認めてくれる誰か」
その存在に対して人は「好意」を抱く。
居場所を求めた末に生まれる感情だ。
そして相手の気持ちによって変わる。
そう考えるととても移ろいやすく不確かなもの、
逆に、
「嫌い」
その感情の根っこにあるもの、
「居心地が悪い」だとか、
「居場所を奪う」だとか、
「存在を認めない」だろうか。
「自己存在を脅かす恐れがある」
そういう存在に対して人は「嫌悪」を抱く。
手にしている自己存在を守るために生まれる感情、
言わば「自己防衛本能」なのだ。
人は「居場所」を失うことを恐れる。
だから気持ちは「好き」よりも「嫌い」に傾きやすいのだ。
そう考えると確かなもの、
相手が「好き」でいてくれないと、
自分の「好き」を維持することは難しい。
だけれども「嫌い」
その感情には相手の気持ちは関係ない。
「好き」は攻めで、
「嫌い」は守り、
手に入れる褒賞は「自己存在」
人生は戦なのだ。
「居場所」を手に入れるためのための戦、
満たされていて、
手持ちに満足していればいい。
それ以上、領土を広げる必要などないのだから、
だけれども、
そうはいかないのが人間だ。
「満たされない」
失ったものばかりに囚われて、
手に入ったはずのものにばかり思考を奪われて、
手に入らない現状から抜け出そうと空回りする。
だから、
「好き」という気持ちを担保に攻勢に出る。
あるかどうかもわからない。
そんな不確かな感情にすがるのだ。
「満たされない」現状から、
その先に希望を見出そうと必死にもがく。
そう考えると、
「好き」って気持ちもまた、
「満たされない」ってことから自分を守るための、
自己防衛本能なのかな。
「好き」って言葉を武器にして、
「居場所」を確保しようとする人がいるけれど、
それは当たり前のことなのかな。
結局は「好き」って打算から生じるもので、
そこに美しさなんてない。
そう考えるとなんとも虚しい。
「好き」と「嫌い」
そのバランス感覚に長けた人が、
たくさんの「居場所」を手に入れるのだ。
恋愛なんて化かし合い。
誰もが羨む魅力的な女性と結婚しても、
複数の女性との不倫に興じるくらいなのだから、
私は「好き」って感情を信じられない。
だけれども「嫌い」なら信じられる。
「汚れてしまったな」
なんだかそう思った。