どちらかといえば、
私は自分の生活をコントロールしたがるタイプだ。
ミニマリストではないけれど、
色々なことを最適化して、
うまく回していることに喜びを感じるタイプ、
だけれども、
その範囲に収まることと収まらないことがある。
平たく言えば、
「自分の意志だけでは決められないこと」
そういうものはコントロールの範囲外になる。
それでも行きつくところまで行ってしまうと、
人の行動や感情までコントロールしたがるようになる。
「なんでこうしないの?」だとか、
「こっちのほうが効率がいいのに」だとか、
自分が相手を指導する立場ならば、
ある程度はそういうことも必要だろう。
だけれども、
コントロールの幅を広げすぎると、
思うように動かない他人に対して、
「嫌悪感」を抱くようになる。
他人を自らの所有物のように見てしまうのだ。
人にはそれぞれの立場や価値観があって、
それぞれの段階がある。
優劣を問う気はないけれども、
ある面では人生ものすごく先に進んでいても、
ある面では全く進んでいないのだ。
私の「恋愛」なんて、
「進んでいない」方の典型例だ。
だから、
誰かをコントロールしようとしたところで、
その人の目に見えないものは見えないのだ。
そこに腹を立てても仕方がない。
結局は、
「自分と世界との関わり方」
そういうことなのかな。
だから私は、
それをこのブログで綴っている。
自分の立ち位置を見失わないように、
そしてその行為すらも、
自分をコントロールしようとしているのかもしれない。
できることはコントロールすればいい。
それに「喜び」を感じているうちは、
きっとそこに「喜び」を感じているうちは、
その努力は「成長」に続いているのだ。
だけれども、自分で自分を雁字搦めにして、
「喜び」がなくなってしまった時、
その時に人生に対して能動性を失う。
自分で決めたことなのに、
どこか誰かにやらされているみたい。
自分で決めたことなのに、
誰かのせいばかりにして、
自分で決めたことなのに、
自分で決めたことすらも忘れてしまって、
あまりコントロールしすぎると、
自分で自分のことを持て余してしまう。
生き急いだところで、
行き着く先は同じ、
そこへの道中を楽しめばいい。
見える景色は綺麗なほうがいい。
だけれども高いところの方が景色が良いとは限らない。
足元にだってさ。
誰にも気がつかれずに綺麗に咲く、
たんぽぽのような花だってある。
「自分らしさ」
高みを目指すあまりに、
そういうものを見失ってしまったら、
本末転倒ないんじゃないかな。