「それ見たことか。やっぱり私って不幸でしょ?」って、
「不幸」であることがどこか嬉しそう。
自分で自分の価値を認めてあげられないものだから、
「不幸」であることにアイデンティティを求めるのだ。
名著『カラマーゾフの兄弟』
「まず第一に自分の人生を愛するところから始まる」
ヴィトゲンシュタインに通じるけれども、
神を信じるとか信じないとか、
神は存在するのかしないのかとか、
そんな答えのない議論にばかり時間を費やす暇があるならば、
黙して自分の人生を豊かにすることに時間を使えば良い。
「真理の探究」から得ることのできるカタルシスもあるけれど、
それってあまりにもコスパが悪いのだ。
それと同じ、
悩んで苦しんで、
「不幸」の理由に思いを馳せたり、
変えられない過去を振り返って、
さも意味ありげに武勇伝に仕立て上げたところで、
教訓になる部分なんて、
最初の数日で吸い尽くしているのだ。
それ以上「不幸」にしがみついたところで、
その先に今以上の「救い」はない。
不幸であり続けることで見出す居場所、
一生それに満足できるならば、
死ぬまでしがみつけばいい。
「私ってこんなに不幸なの」って、
周りに毒をまき散らして、
そんな「負の産物」であることに、
居場所を見出せばいい。
居場所を捨てて、
新たな居場所を探すのは、
とても大変なこと、
だけれども、
「負の産物」であり続けるような、
そんな惨めな生活には耐えられそうもない。
そのことに気が付いてよ。
本当にさ。
ある種のヒロイズム、
子供の頃は誰もがヒーローだった。
自分の可能性を信じ切って、
「不幸」になんて目もくれなかった。
それがさ。
個人差はあるけれど、
現実見せつけられてさ。
いつの頃からか「悲劇のヒロイン」を演じるようになる。
そっちのほうが楽だから、
自分の可能性を信じるよりも、
そっちのほうがよっぽど楽だから、
今はその延長線上にいるのだ。
いい加減に気が付いてよ。
無粋でも不格好でもいいからさ。
「幸せ」掴むためにあがけばいいじゃない。
できるところからさ。
「現状維持で万々歳」
「不幸」に飼い慣らされてしまうと、
そうやって「不幸」にしがみつく。
そうやって、
「不幸」ってやつは養分を吸うために、
宿主を手放さないのだ。
だけれども「不幸」には、
魔力はあっても強制力はない。
「痛み」は伴うけれども、
それを手放そうと思えば、
時間をかけてでも手放すことができる。
だから、
「まず第一に自分の人生を愛するところから始まる」
「自分に同情するなんて下劣な人間のすることだ」
そうやって、
自分の人生を諦めたらいけないんじゃないのかな。
「諦めたらそこで試合終了です」
「安西先生、幸せになりたいです」
からの、
ポカリを握りしめながら、
「俺はなんて無駄な時間を過ごしていたんだ」
もがき苦しみながらも、
何かを掴もうとする必死な姿は美しいのだ。