テレワークが懐かしい。
実に平和だった。
ブログの内容を振り返ってみてもわかる。
「時間を持て余すこと」
それが悩みだったくらいだ。
ここ最近の記事は、
とても私のブログらしいといえばらしいのだが、
心がささくれ立っていることを否応なしに感じてしまう。
一番のストレス要因である私の「惨めさの象徴」
その彼女の存在を認知するだけで、
イライラを抑えることができない。
「存在自体がストレス」
生理的に無理、
だけれども関わらざるを得ない。
そういう人とはどう付き合えばいいのだろう。
「損得以外の感情を一切排除する」
「嫌ってやる価値もないから感情を動かさない」
「敢えてバカ丁寧に接する」
そういう声は聞こえてくる。
だけれども感情は動いてしまう。
負の方向に思いきり、
平静を装っていても、
神経が反応してしまう。
細胞が全力で拒否するのだ。
「生理的に無理」って、
一時的にそう思った人はいるけれど、
ここまで無理というのは記憶にない。
「劣等感」を材料にして、
「憎しみ」を生み出して、
その「憎しみ」を使ってバイアスをかけ続けて、
その結果、
「生理的に無理」
そんな感情が出来上がるのだ。
長い時間をかけて作り出す。
もはや芸術作品なのかもしれない。
「嫌いなのに関わり続けなければならない」
夫婦でもままあると聞く。
大人になるとそういうものも平気になるのかな。
結局のところ、
私は子供なのだ。
「嫌う」ことで彼女に「甘えている」のだ。
相手もいい迷惑だろう。
そう考えるとそれもまた腹立たしい。
こんな無駄な感情は早く捨てたいのだけれども、
関わり続ける限りはそれもできない。
「惨めさの象徴」
ルサンチマンを嫌気がさすほど刺激する。
それを超克できない自分、
無理をしすぎるとニーチェのように発狂してしまう。
人の良いところばかりに目が向くようになりたい。
嫌なところなんて最低限でいい。
頭の中お花畑で、
人の悪意なんて受け流して、
「やりたいこと」と「やらなければならないこと」
それだけに集中して、
そうやって生きていけたらいいのに、
世界がクリアになってしまった。
それによって得るものもあるけれど、
それ以上に傷つくことは増える。
私の交感神経よ。
働きすぎだから無理せずに休んでくれ、
このままでは雇用主として責任を取らされてしまう。
そのくせ副交感神経は休んでばかり、
きっと私の副交感神経は、
か弱いふりをした強かで容姿だけは良い女の子なのだろう。
まるで私の「惨めさの象徴」そのものだ。
エコひいきが過ぎる。
私の体はブラック企業か。