ある記事で目に付いた言葉、
「不倫や痴漢の動機」
その半数以上は、
性欲をコントロールできないのではなく、
支配欲からくるものとのこと、
「女のくせに」
女性の社会進出が顕著になり久しいが、
いまだにそういう風潮はある。
「女性は容姿で採用している」
公言はしていなくても何となくわかる。
社員からはそう揶揄されるような企業も少なくないだろう。
病理はやはり、
「人を道具として見ている」ということ、
私のブログにたびたび登場する。
もはやサブテーマになりそうなくらい書き続けている言葉、
目の前にいる人は、
自分と同じ生身の人間、
それは画面越しでも同じこと、
人がどんどん「記号」になっていく。
積みあがる数字にばかり心を奪われるから、
他人の心にまで考えが及ばなくなってしまうのだ。
私は基本的に女性を恐れている。
はっきり言って女性不信だ。
「若くてきれいな」という形容詞が付くのかもしれないけれど、
それでいてフェミニスト寄りの考えを持ち、
女性に心惹かれるヘテロ男、
どれだけこじらせたら気が済むのかというくらい、
もはやよくわからない立場だ。
「女性の持つ神秘性」
「清らかさ」とも言えるだろうか。
私はきっとそういうものを信じているのだろう。
だからいくら女性の不誠実さに傷つけられても、
どこかに「運命の人」がいることを信じている。
「男尊女卑依存症」
世間にそういうものが蔓延っていると憂慮する女性たち、
だけれどもその逆も辛いものがある。
「女性の神秘性」を信じるあまり、
いつまで経っても先に進めないのだ。
どこかで見たことがあるけれど、
アイドルオタクなんかの話では、
自分が「推し」と付き合うなんて恐れ多くて考えてもみない。
そういうものらしい。
私の「女性に対する神秘性信仰」は、
それに近いのかもしれない。
これはフェミニズムでも何でもないな。
女性を「理想」という額縁に閉じ込めて鑑賞したがる歪んだ愛着、
そういう意味では「男尊女卑依存症」と同類だ。
私は「女性」を、
「人」として見る前に「女性」として見ているのだ。
これもまた「若くてきれいな」という形容詞が付く。
結局は年齢や容姿で判断している。
一回りくらい年上の女性たちには躊躇なく親しげに話しかける。
だけれども若い女性にはそうはいかなくなってしまった。
「女性」として見る前に「人」として見る。
言葉にするのは簡単だけれども、
なかなかに難しい。
こういうのって、
本能みたいなもので、
いつまで経っても変わらないのかな。
「女性」の方だって、
使えるうちはそれを武器にしている節がある。
それが当たり前で誰も損をしていない。
それならば、
こんなことを考えること自体が無駄なのかな。
「女性」の生きづらさ、
それと同じように存在する「男性」の生きづらさ、
そういうものにも目を向けてほしい。
私は「本能」を「理性」でコントロールしようとしすぎているのかな。
自らの欲求に正直になること、
それも誠実さのカタチなのだ。
『ノルウェイの森』を読み直す時期が来たか。