「触れたい」の出どころが「性欲」の先にあるものなのか

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「触れたい」


女性に対してそう思うことは多いけれど、

その気持ちの出どころがどこにあるのか。


そういうことにばかり考えを巡らせている。


「性欲を満たすための道具」

男は女性のことをそう見がちだ。


私にとってそれは嫌悪すべきことで、

女性を「女性」である前に「人」として見たいと思っている。


ただそうなってくると、

「触れたい」

その気持ちは男性に対しても生じるのだろうか。


私はヘテロセクシャル

女性が好きな男だ。

少なくとも今のところは、


「性愛」と「友愛」


その境界線には、

接触」と「非接触」があるのだろうか。


友人に対して背中をバンバン叩いたり、

歓喜のあまり抱き合ったり、


私がまだ理想に燃えて生きていた頃は、

男に対しても自然とそういうことをしていた気がする。


接触」と「非接触

どうやら親愛を示すための接触に性差はないようだ。


そうなると、

「触れたい」


その感情の出どころはやはり重要、


「性欲」なのか「親愛」なのか。

そこに「誠実」と「不誠実」の境界があるのかな。


前に記事にしたけれど、

私は2か月余りポルノを断っている。


きっかけは忘れたけれど、

「性欲を飼いならす」

その先にどのような変化が待ち受けているのか興味があり、

3か月は続けるつもりでいる。

 

その結果は記事にするつもりだ。


私は「性欲」と「不誠実」を同一視しすぎているなのかな。


ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟


まだ途中だけれども、

おそらくこの作品のテーマは「自分に人生を愛すること」


色欲にまみれた父フョードル、


「知性」の象徴である次男のイワンは、

父を軽蔑しながらも「親父は間違ってはいなかった」

そう口にするシーンがある。


色欲にまみれていて道化のように笑いものにされていても、

「自分の生きたいように生きる」

その点での評価だろう。


余談だが、

世界的名著と呼ばれるだけあって、

この作品は本当にすごい。


人間の弱さや醜さ、浅ましさ、

負の部分が凝縮されている。


そしてそれを「良心」の象徴である、

三男アレクセイと対比させて、

絶妙のコントラストを生み出す。


これも読了後に記事にするつもりだ。

 

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話を戻そう。


「自分の欲望に正直に生きること」


村上春樹ノルウェイの森』の最後で主人公に語られる言葉、

「あなたは自分のやり方にこだわりすぎている」


「誠実」という看板を掲げたばかりに、

「誠実」と「不誠実」のはざまで、

もう何年揺れ動きながら生きているのだろう。


「誠実でありたいと思う」

だけれども「欲望に正直でありたい」


その二つは二律背反しているのかな。


きっとそんなことはなくて、

ただ私が不器用なだけなのだろう。


みんなよろしくやっているのだ。


表では紳士気取りながら、

裏では多目的トイレで情事に及ぶ。


「傷つけてしまった」


傷つけた側にだって痛みはあるはずなのにね。

その痛みにどんどん鈍感になってしまうのだ。


だけれども「傷つけたくない」って、

そうやってチャンスを見送り続けるのは、

自分が「傷つきたくない」ってだけなのかな。


「触れたい」


その出所に思いを馳せる暇があるならば、

その感情に正直であればいいだけなのかな。


ノルウェイの森


先ほどと同じシーン、

「経験的に思うのだけれども、

幸せになれるチャンスなんて人生に二回か三回しかしか巡ってこない」


最近とても気になる『ノルウェイの森

前に読んだのはブログを始めた頃だろうか。


もう一度読む時期なのかもしれない。