誰かと比べてどれだけ人生が先に進んでいるのか。
誰かと比べてどれだけのステータスを手にしているのか。
「欠落感」
その陰には「誰かと比べて」って、
そんな物差しが潜んでいる。
物差しを刀に見立ててさ。
鍔迫り合いを繰り広げて、
「やるな!」「そちらこそ!」なんてさ。
面白おかしく競い合っているうちはいい。
だけれども年を取るにつれて、
笑い事ではなくなるのだ。
刀を持つ気力すら失って、
手に入らない理由という言い訳を確立して、
鍔迫り合いを繰り広げていたライバルたちは、
先のステージに進んでいった。
取り残されてしまったようだ。
仲間たちと話をしていても、
新婚ののろけや奥さんが出産を控えている話、
家庭や子供のことで悩みをさらけ出している間、
私はどんな顔してそれを聞いていればいいの?
何をするにしても、
「家庭」のことが先に来る。
もはや別世界の住人なのだ。
あれだけ居心地がよかったのに、
居心地が悪くなってしまったな。
次のステージに進まないと、
どんどん居場所はなくなるのだ。
だからみんな必死になって、
心を殺してまで結婚のために躍起になるのだな。
そうなるまで気が付かない私は鈍感なのだろうか。
人は「本能」に突き動かされて、
それを「理性」と折衝させながら行動規範をつくる。
そのバランスが「個性」ってものなのかもしれない。
「人並外れた理性の持ち主」
かつて読者の方が私を評した言葉、
チャンスはたくさんあった。
だけれども逃し続ける。
臆病で勇気のない小心者、
そういう面はもちろんある。
だけれども私は「私のやり方」にこだわりすぎているのだ。
「誠実」って看板が何の役に立つのだろう。
みんなもっと衝動的にお楽しみなのだ。
そしてそれでwin-winの関係を築いている。
「満たされない」
そりゃそうだ。
「理性」で「本能」を殺しているのだもの、
「人としてどうあるべきだ」とか、
「相手を傷つけたくない」だとか、
難しいことばかり考えてさ。
結局は自分が傷つくのが怖いだけ、
ただの臆病者なのだ。
その「理性」って名前を付けた鎧を脱いで、
もっと生身で勝負できるようにならないと、
鎧の上からでは温もりは伝わらないのだ。
だから私の恋愛はうまくいかない。
いつだってそう。
「奇跡的にうまくいかない」って、
そう思っていたけれど、
それは必然だったのだ。
「触れたい」
そう思うならば
とりあえず触れてみればいい。
怖がらないでさ。
そっと優しく気持ちを込めて、
触れてみればいい。
気持ちが繋がっているかもしれないし、
それで気持ちが繋がるかもしれない。
例え繋がらなかったとしても、
後のことはその後で考えればいいのだ。
私はどこへ向かうのだろう。