随分前の話だ。
「躁うつ病」を患う友人に言われた言葉、
究極の自己否定の言葉だ。
彼とはここ何年も接点がない。
どこに住んでいるのかもわからない。
繋がるかどうかもわからない連絡先だけは、
おそらくアドレス帳に残っている。
今ではそんな関係だ。
彼は「結婚」に対する憧れはあったけれど、
「子供をもつ」ことについてはとことん否定的だった。
詳しくは書かないけれども、
家庭環境に影響を受けているようだ。
とても上昇志向で努力家だった。
夢があり、
それに人生の大半を懸けていた。
だけれども結果が出ずにその道を諦めた。
「自分の周りにはすごいやつだけを置いておきたい」
おかしくなり始めた頃に、
彼が言っていた言葉、
周りの不手際を必要以上に責めるようになった。
「意識高い系」てやつかもしれない。
そうして周りは離れていく。
私に対しても一度そういうことがあった。
今ではだいぶ丸くなったけれども、
もともと私は「売られた喧嘩は買うタイプ」
責められた行為にある背景や価値観を事細かに説明して、
彼の態度を改めるように諭すと、
どうやら相当に堪えた様子、
確かその日のうちに「会わせる顔がない」と連絡が来て、
そこから音信不通になった。
それから年単位で時間を空けて、
何度か会って話したりもしたけれど、
「互いの道が交わることはない」
そんなニュアンスのことを言われて、
それを機にまたしばらく会っていない。
こういう考え方は傲慢かもしれないけれど、
たまに会うようになってからは、
彼の中での私の存在感は肥大化していたようだ。
とても狭い世界で生きていたのだろう。
私に話したいことをノートに書き留めて準備していたこともあった。
「私はカウンセラーか」
そう思って彼の話を聞いていた。
今思えば不誠実だった。
友情よりも経験を積むために会っていたのかもしれない。
世界が狭くなりすぎると、
どうしたってネガティブにならざるを得ないのだ。
ネガティブをこじらせすぎると、
どんどん「自己否定」に夢中になる。
「自分の遺伝子を残すこと」が社会のためになるとは思わない。
彼の言葉、
ここでは「社会」を「世界」と言い換えるけれど、
真面目な人ほど「世界」が正しくて「自分」が間違っている。
そう思い込みがちなのだ。
そんなことはないのにね。
「世界」に触れれば触れるほど、
「世界」なんて大して正しくもない「いい加減なもの」だって、
そういうことに気が付くのにね。
「自分の人生を愛すること」
それさえできれば、
少なくとも「この世界の片隅に」
自分で自分の「居場所」を確保してあげることができる。
「自己否定」をこじらせてしまうような「いい人」
私に言わせれば「どれだけ『いい人』なんだ」と思うよ。
その「いい人」が、
「この世界に居ちゃいけない」だなんて、
世界はまだそれほど狂っちゃいない。
彼はとにかく「舐められたくなかった」のだろう。
人生懸けて進んだ道、
その先で報われなかったから、
肥大化した劣等感、
「ルサンチマン」ってやつだ。
人の非を責めることで、
自分の存在価値を見出そうとする。
そうやって人から認めてほしいのに人は遠ざかる。
何とも皮肉なことだ。
今、彼がどうしているのかはわからない。
もしかしたら、
結婚して子供がいるのかもしれない。
ともあれ、
よろしくやっているといいけれど、
「いい人」ほど苦しむのだ。
「いい人」であるがゆえに、
何とも皮肉な世の中だ。