最近よく書くけれど、
休みの日はゲームばかりしている。
子供の頃に母親から言われたことがある。
「ますをはゲームで身を滅ぼすよ」
今思えば割と過激なことを言われている。
私はかなりのゲーマーだった。
高校までだろうか。
ディープではないけれど、
王道には一通り手を出している。
いつの頃からか、
なんだか理想に燃えてしまって、
不思議と関心は外に向いたものだから、
しばらくゲームに触れない期間があった。
据置機はPS2で止まっている。
携帯機はゲームボーイカラーまで、
そこから社会人になって落ち着くと、
スマホゲームをやるようになった。
仕事が忙しい時期もあったから、
色々なゲームを始めたり止めたりの繰り返しだけど、
オフ会に参加してみるほどハマったものもある。
そしてまた今、
自粛を機にゲームばかりしている。
私はケチで課金するくらいなら止める派だから、
そこの節度はあるのだけれど、
ゲームの中毒性は、
「努力が報われるから」生じる。
一度記事にした覚えがあるけれど、
そういうことらしい。
リアルは報われない努力ばかりだ。
だから人は「報われる努力」を求めて、
ゲームにのめりこむ。
射幸心を煽るビジネススタイル、
人は「居場所」にお金をかける。
買うものはデータではなくて「居場所」
何ともよくできた商売だ。
書いていて思った。
「笑うセールスマン」みたいだな。
「心のスキマお埋めします」
運の要素を強めにして、
たまに激レアなアイテムを引く。
それによって射幸心が満たされる。
そういう商売なのだろう。
世の中には「満たされない人」がたくさんいて、
「満たされない」と思いながら、
与えられた役割をこなし続けている。
その中に何か一つでも光り輝くもの、
ヒーローでいられる場所、
そういうものがあるだけで日常は照らされる。
だからそれを求めて、
ゲームに時間とお金をつぎ込むのだ。
だけれども気を付けなければならない。
積みあがる数字の魔力、
その虜になってしまったら歯止めは効かなくなる。
「リアル」と「バーチャル」が逆転してしまうのだ。
「いつ死んでもいいと思っている」
ゲーム以外に生きがいがなくて、
二十歳そこそこでそんなことを言っていた友達がいたな。
「ゲーム」って運営側からすれば商売だ。
利益が出なくなればサービスを中止する。
だからそんなものに人生預けてしまうと、
意図せず誰かに命を握られることになる。
今の私もそうだけれども、
ゲームに射幸心を求める時期があってもいい。
そこで得られた成功体験、
それが癒しになったりもする。
ゲームは素晴らしいものだと思う。
だけれども付き合い方は考えなければならない。
ソシャゲ関係の掲示板って、
例外なく運営への批判で荒れている。
みんなのめりこみすぎて人生を懸けているのだ。
「居場所を失いたくない」って、
なんだか必死なのだ。
自粛中にパチンコに並んでいた人たちも同じなのかな。
人はそれぞれに「居場所」があって、
その中で生きている。
それが一つしかない人もいれば、
いくつもを股にかけて右往左往している人もいる。
周りに度し難い迷惑をかけない限りは、
思う存分にその「居場所」に夢中になればいい。
「度し難い迷惑をかけない限り」は、
結局はさ。
人生は自己責任、
どういう「居場所」を作りたいのか。
どういう「居場所」を作ったのか。
「家庭」を築いて「居場所」を作る人もいるし、
「家庭」を築いても「居場所」がない人もいる。
「仕事」だって「趣味」だってそうだ。
人は「居場所」を求めて生きている。
その「居場所」によって自尊心を満たす。
だから、
「引きこもってゲームばかりして先に進んでいる気になっていればいい」
その先の人生に自分で責任を持てるのならば、
「ありがとう。この世界の片隅にうちをみつけてくれて」
戦争前後が舞台の物語、
一人では生きてはいけない時代だから、
人と人とが繋がるのだ。
今はパーソナリティが肥大化して、
一人でも生きていけるようになった。
でも、そうやってさ。
お互いがお互いの「居場所」になる。
どこの世界もそうであればいいのに、
いつも誰かと繋がっているのに、
いつも孤独を感じているのだ。
「人類はひとつ」とは言わないけれど、
もう少し周りに関心を持ってもいいんじゃないかな。
画面にばかり夢中になっていると、
大事なことを見落としてしまう。
「ゲームで身を滅ぼすよ」
戒めとして忘れてはならない言葉だ。
ゲームに満たされる。
そういう「時期」はあっても、
ゲームだけで満たされる「人生」はないのだ。