「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「加害者性」としての男性性について思うこと

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※長文です。


はてなブックマークでエントリーされていた記事

 


その中に出てくる、

「加害者性という新しい生きづらさ」という言葉、

それが妙に腑に落ちた。


「まさに自分はこれだ」って、


このような思想の萌芽、

それは随分と前からのものなのかもしれない。

 

「人を道具として見てしまう己の弱さとの戦い」

 

たびたび書いているけれど、

「できるだけ人を道具として見ない」

少なくともここ2年くらいの私のテーマだ。

 

このテーマに「性」が絡むとやっかいだ。


「男」チームと「女」チーム、

中にはマイノリティの方もいるけれど、

大別すると人は2種類のチームに分かれる。


そこに所属しているという自意識、

それがアイデンティティと密接に絡まってくる。


「男らしさ」「女らしさ」


物心ついたころから、

「性」というラベルを貼られて、

そのラベルに沿った生き方が始まる。


それに違和感を感じて、

自分の道を貫く人もいれば、

モヤモヤを抱えながらもラベルの通りに生きる、

そういう人もいるだろう。

 

大抵はその「ラベル」に違和感を感じることなく、

役割に沿った自己を確立する。

 

人は時間をかければかけるほどに、

帰属意識が高まる。

だから所属する「性」への愛着、

それを自己と同一視するほどに高めるのだ。

 

だけれども何かのきっかけがあり、

相手チームに芽生える愛着、

 

きっかけは「愛」だの「恋」だのかもしれないし、

自尊心を高めるための「偽善」かもしれない。

 

「私って尽くす女なの」

「俺って紳士だからさ」

 

そこに自尊心を担保して、

自らの価値を見出す人が出てくるのだ。

 

だけれども皮肉なことに、

ジェンダーレス」を主張する人ほど、

ジェンダー」にこだわっている。


「異論」はあるだろうけれども、

世間一般のマジョリティとして、

社会的に見ればまだまだ「男尊女卑」だろう。


「男尊女卑依存症」

 

tureture30.hatenadiary.jp


前にそういう記事を書いたけれど、

男も女も「ラベル」にこだわるあまり、

そういうものに陥っているのだ。

 

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少し話は逸れたけれど、

本題はここからだ。

 

冒頭の記事によれば、

「男尊女卑を嫌悪する」

そんな男性が増えているようだ。

しかも今後はさらに増えるであろうと予測する。


先に挙げたように、

私もその一員だ。


社会的な流れでもあるのだろうけれど、

心の中で自意識が肥大化して、

男としての「加害者性」に思い悩むのだ。

 

この記事を読んだ時に、

私の抱えていたモヤモヤを言語化してくれたようで、

「これは」と思った。


ここ数年だろうか。

私は女性から「不安を解消するための道具」として、

不誠実な扱いを受けてきた。

婚活を始める前からだ。

複数の相手からまとまった期間に、


だから逆に意固地になって、

「自分は女性を性欲解消のための道具として見ない」と決めて、

ポルノまで断って紳士気取っているところだ。


「女性不信」


それって女性を恐れるあまり、

丁重に扱っているだけなのかな。


もう一度書く。

ジェンダーレス」を主張する人ほど、

ジェンダー」にこだわっている。


結局、私は「女性」のことを、

どこまで行っても「人」として見る前に、

「女性」として見ているのだ。


この記事に出てくる、

「加害者性」に苦しむ男たち、

 

その点はおそらく私と同じだろう。

結局は「女性」を区別しているのだ。

 

もちろん精神面では雲泥の差だ。

だけれどもそこを離れなければ、

結局は「加害者」と同じよう目で、

「女性」を見ていることになる。


世間一般からすれば「考えすぎ」

そういうことになるのだろうけれど、

私には悩む気持ちが痛いほどわかる。


「やり捨て」や「性犯罪」

身体的優位を利用しての「暴力」だってそうだろう。


そういう報道を見聞きするたびに、

「男」でありながら「男」を嫌悪するようになる。


女性経験が少ないと、

さらに拍車をかけるんじゃないかな。


「女性」は清らかなもの、

「男」は汚らしいもの、

「男」は「女性」を守るべきって、


実感を伴わずに、

そういう観念に縛られる。

 

だから付け入る隙を与えて、

強かな女性に「不安を解消するための道具」

そういう不誠実な扱いをされる。


「裏切られた」


そして必要以上にそういう感情を増幅させる。

(実際にひどい目には合っているのだけど)


おそらくそれが、

私の「女性不信」の正体だ。

 

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これを解消するためには、

ジェンダーレス」を捨てることだろう。


「なんちゃってフェミニズム


私が紳士気取っているのなんて、

結局は「なんちゃって」なのだ。


それどころか男を嫌悪している分だけタチが悪い。


「抱き心地がどうだ」とか、

「彼女をゲットしちゃってくださいよ」だとか、

「メンヘラでよければ女を譲ってやるよ」だとか、

 

これまで、

そういう言葉をかけられるたびに嫌悪が深まった。


「男」なのに「男」が嫌いなのだ。

いや、語弊があるな。

「男」なのに「加害者性としての男」が嫌いなのだ。


だけれども「女性」からは「男」として受け入れてもらえない。

 

「自分は他の男とは違って、

女性をモノとして見ないよう努めている」のに、

 

そんな自意識に付加価値つけて、

自分を慰めているからそうなる。


だけれども、

女性にそのニーズがないのだ。


女性の側だって、

マジョリティに対抗すべく、

そういう男への対抗策は織り込み済みなのだから、


私は「まるごし」なのに、

相手は武器を持っている戦場に向かう。

私の婚活ってそういうものだったのだろう。


「男」としての自尊心の欠落、

もはや手の施しようがないくらいだ。


これからは私も武器を持つべきなのかな。


いやそれは違うな。

むしろ服まで脱ぎ捨てるべきなのだろう。


ジェンダーレス」


おそらく衣服という文化がこの世に存在しなかったら、

必要以上に「性」を意識することなんてなかったのだ。


変に隠して、

そのくせ服の上から「性」を強調するから、

自意識が芽生えたのだ。


だから私は「裸で女性と向き合う」

 

ここだけ読むと正真正銘の変態だな。


「心が裸で」

そう書けば少しは格好がつくだろうか。


ジェンダーレス」を捨てる。

「なんちゃってフェミニズム」を捨てる。


「男」が「女性」を「女性」である前に人として、

「女性」が「男」を「男」である前に人として、

そうやって接することって不可能なのかな。


傷つけられたから敵視する。

受け入れられないから敵視する。


だけれども、

あなたを傷つけたのって、

あなたを受け入れてくれないのってさ。


「男」でもなく「女」でもなく、

「そいつ」個人でしょ。

例え複数人だったり、複数回だったとしても、

「そいつら」でしょ。


それを飛躍させてさ。

 

「男」チームと「女」チーム、

相手チーム全体を敵視する。


そもそも、

「チーム対抗戦」に持ち込む必要はないのだ。

 

「むかつく」のも、

「憎い」のも、

「嫌い」なのも、

 

全部「そいつ」だったり、

「そいつら」だ。


嫌いでもムカついても憎くてもいい。

場合によっては殺してやりたいと思っていてもいい。

(思うだけで行動に起こさなければ)


だけれども、

そこに「性」を持ち込む必要はないんじゃないかな。


きっとそれが病理だ。


「優しすぎる」と付け込まれる。

だけれどもそこに「男」も「女」も関係ない。


クズな奴、クズな奴らはいるけれど、

そいつらはクズな「男」でも「女」でもなく、

クズな「人」だ。

(人とすら言いたくないかもしれないけれど)


「女性」に優しくするのはやめた。

「人」に優しくなろう。

 

必要以上に「性」にこだわりすぎるからこじらせるのだ。


この記事が私にとっても、

同じように「性」に固執する人にとっても、

有意義なものになることを願う。