細かいことを気にしたり、
細かいことに気が付いたり、
「神経過敏」な傾向の強い人、
おそらく「今の私」はこれに当てはまる。
そして父と母もこの傾向があるように思う。
だけれども「前の私」
割といろいろなことに無頓着だった。
「大抵のことは何とかなる」
そんな根拠のない自信が生き方の根底にあったように思う。
性質が変わってしまったのだ。
「不安」や「痛み」
それは自己防衛本能だ。
大切な役割を果たしている。
だけれども、
その「自己防衛本能」を遠ざける癖がついて、
知らずのうちに体が限界を超えてしまったときに、
一気に爆発してしまう。
「不安の暴走」
偏桃体からのアラートは常に鳴りやまない。
そういう時期を経験をした。
一度壊れてしまった自律神経は元には戻らない。
これから先は「今の私」で生きていくしかないのだ。
もしかしたら「未来の私」
そういうものもあるのかもしれない。
「世界の見え方が一変してしまうような経験」
もう一度くらいは、
そういうことがあるような予感もする。
「神経症的傾向」
今ではだいぶ飼い慣らせるようになった。
生きていれば色々あるのだ。
のび太だった「前の私」
まだ眠れない夜はある。
ジャイアンだった「前の私」
だいぶ臆病になってしまった。
そしてスネ夫でもあった「前の私」
見栄やプライドはいくらか捨てられた気がする。
こうした変化、
私の場合は明確な出来事があったけれど、
そういうことがなかったとしても、
人って少しずつ時間をかけて、
気がつかないうちに変わっているんじゃないのかな。
変化を敏感に感じ取ってしまう。
気が付きたくもないことに気が付いてしまう。
人の「好意」や「嫌悪」
裸のままでそう言うものに晒されて、
必要以上に傷ついてしまう。
「鈍感になりたい」
そう思えば思うほどに、
「敏感」になってしまう。
「気が付いても受け止めない」
土台無理な話だ。
優しいあなただから、
そうやって割り切ることができない。
その気持ちはさ。
痛いほどわかるよ。
人の不誠実さや無神経さ。
そういうものに心がささくれ立ってしまう。
傷つく必要なんてないことに傷ついて、
誰かを大して傷つけていないのに気に病んで、
周りの態度に右往左往してしまう。
「自分」になるしかないんじゃないかな。
「自分の人生を愛する」
周りは関係ない。
そういう軸を持つことができるかどうか。
結局はそういうことなんじゃないかな。
「脅威」を感じるから「ストレス」になる。
それならば「脅威」に格上げしてやらなければいい。
捉え方ひとつだ。
格上げするのも格下げするのも自分自身なのだ。
大抵の悩みは杞憂、
人生なんてどうでもいいことばかりだ。
そのどうでもいいこと達に、
いかに夢中になって生きるか。
そこに人生の醍醐味があるんじゃないかな。
どうでもいいことが少なくなりすぎて、
深刻なことばかりが増えているならば、
どこかで基準を変えてやらなければならない。
深刻なことばかりにさ。
そればかりに夢中になっていたらさ。
楽しいことを見逃してしまうよ。
世界には楽しいことがたくさんある。
苦しみを引き受けることばかりを美徳にして、
「それが自分の人生」だなんてさ。
なんだか損をしている気にならないかな?
この国の社会保障は手厚い。
身体的に問題がなければ生きていけるのだ。
向き合うことが大事なことはあるし、
向き合うことが大事な時期もある。
だけれども、
向き合うことが趣味になってしまったら、
それなしでは生きてはいけなくなる。
「世界の正体」よりも、
「目の前の幸せ」
そっちの用がよほど価値のあることなんじゃないかな。
「自分らしさの確立」
それ以上に重要なテーゼなんて、
人生に存在するのだろうか。
「真理」は人に何か与えるどころか、
人から何かを奪うばかりだ。