
多くの人はきっと、
自分の「死」だなんて「遠い先の未来」
そう思って生きているのだろう。
私もそうだった。
だけれども、
「世界の見え方」が変わってしまったのだ。
精神的に死にかけて、
身体的にも死にかけて、
「死」というものを身近に感じるようになった。
「いつ死んでもおかしくないな」
漠然とそう思いながら生きている。
今日、明日ではないけれど、
1年後だったり、3年後だったり、
少し先の未来に思いを馳せると、
「自分はそこまで生きているのかな」
そういう考えが頭に浮かぶ。
私の人生がこの先どれだけ続くのか、
それはわからないけれど、
精神的にはもう晩年なのかな。
まだ手足は動く。
「人生に対する期待」を捨ててはいない。
先日会った友人、
どうやら二人目を生むために夫婦で不妊治療をしているらしい。
その最中で自分の親に病気が見つかり、
プレッシャーと相まって奥さんは少しメンタルを崩しているようだ。
夫婦の統一見解として、
とても前向きに努力をしているみたいだけれども、
私の第一声は「無理しなくていいんじゃないの?」だった。
前の私だったらきっと「応援している」って、
伝え方はともかくとしても、
そのようなスタンスだっただろう。
臆病になってしまったのかな。
「手に入れる」ことよりも、
「手放す」こと、
今の私の「天秤」は、
基本的にそちらに傾いているようだ。
だから何か「重り」を乗せてやらないと、
「手に入れる」には傾かないのだ。
「1グラム」そして「1グラム」と、
徐々に必要な「重り」
その重さは増していく。
そして「天秤」自体がさび付いて、
ビクともしなくなった時に、
人は「死」に向けて歩みを進めるのだろうか。
30代独身にして、
既にデフォルトが「手放す」の私、
そんなに手放すものなんてありはしないのに、
このままだと、
すぐに手持ちは底をついてしまう。
そうならないように、
たくさんの「重り」を準備しないといけないのかな。
「動機」ってやつ、
「重り」は別の言い方をすれば、
「動機」ってやつだ。
「生きる」ための「動機」
「生きる」ってことは本能的なこと、
本来であれば、
そこに「動機」は必要ないのだろうけれど、
私はそこに「動機」を求めているのかな。
人が自ら命を絶つ時ってさ。
「死ぬ」ための「動機」があるからではなくて、
「生きる」ための「動機」がなくなるからなのかもしれない。
「絶望」とはよく言ったものだ。
私には「死ぬつもり」はない。
だけれども「生きるつもり」があるのかはわからない。
そうだ。
肉でも食べて酒でも飲もう。
そして大好きな「おっぱい」のことでも考えていればいい。
男は生まれてから死ぬまで、
「おっぱい」のことばかりを考えているのだ。
それだけは、
「生」に近かろうが「死」に近かろうが変わらない。
きっと不変の真理だ。
昨日の記事は何だったのか。
「ジェンダー」を都合よく扱っているのは私だな。