今年もまた、
過去最大レベルと言われる台風が来るようだ。
前回の傷も癒えぬまま、
九州の皆さんの心中はいかばかりか。
とても想像の及ぶところではない。
被害が人命に及ばず、
最小限に収まることを祈るばかりだ。
さて、恒例になった酷暑に、
過去最大レベルの災害、
加えて今年は疫病である。
天はどれほど人類に試練を与えるのだろうか。
それとも人類の業に対する報いなのだろうか。
人と人とはコミュニケーション手段を制限されて、
そのつながり方が大きく変わる。
「就活」に「婚活」
人生の岐路に立つ瞬間、
その進む方向、
そして共に歩む人、
人はこれから先、
それらを画面越しで決めるようになるのかもしれない。
「画面越し」というのは気楽だ。
目に映る部分だけを繕えばいい。
ボタン一つでつながりを切ることができる。
「移動時間」は必要ない。
もともとの関係があれば別だけれども、
ある意味では「割り切った関係」なのだ。
これからはそういうシーンが増えるのだろう。
だから人は「時間」を、
「自分のため」に使うようになる。
そして世界も、
「時間」を「自分のため」に使うことに寛容になる。
おそらくそれがスタンダードになるのだ。
昔ならば「災害だろうが会社に行く」
「店を閉めるなんて考えられない」
それが社会人としての評価につながったのだろう。
だけれども、
もはや今はそれが非難される時代だ。
「寛容」
その意味で「人の精神」ってものは、
浄化されていっているのかな。
それとも本質は変わらないのかな。
SNSによって、
少なくとも「表面的」には、
人と人との距離が縮まったものだから、
色んな立場の「痛み」や「苦しみ」「悲しみ」に触れる機会が増えた。
そして、
「怒り」や「憎しみ」
「嘲笑」や「侮蔑」
そういうものは非難されるようになった。
「痛み」には共感して、
「苦しみ」には励ましを送る。
意地や見栄やプライド、
身近な人間関係ではそれらが邪魔をするけれど、
誰だって誰かの役に立ちたい。
もともと世界はそうできていたのだ。
いわゆる「荒らし」
多くはサイレントマジョリティだから、
声の大きいマイノリティが目立つけれども、
実際はそういうことを行う人の割合なんて、
5%にも満たないらしい。
調査によっては0.5%とも言われている。
ダークトライアドの気質が強く、
自分で自分を認めてあげられないから、
誰かを下に見ることで相対的に自己価値をあげようとする、
そんな一部の特殊な人たちだけなのだ。
人は善悪を評価して、
それにより「パーソナリティ」を形作る。
私がよく使う表現だけれども、
「パーソナリティ」はどんどん肥大化している。
おそらく昔はもっと、
「自分」について考える機会は少なかったのだろう。
だから「社会」や「規約」
そういうものが絶対視されて、
それに準ずることがステータスだった。
「善悪の基準」が明確な分、
「統率」は取れるけれど「柔軟性」は失われる。
だからレールから外れた人は「異質」
そういう扱いだったのだ。
だけれども時代は変わった。
平日の昼間にご主人が出歩いていても、
「テレワークかしら」だなんて思われたり、
家事や育児をプロにお願いしても、
「共働きで大変なのね」と励まされたり、
類を見ない台風の最中に出勤しようものならば、
「何を考えているんだ」って非難される。
有事の際に、
店がやっていなくても、
公共交通機関が動かなくても、
「そりゃそうだよね」って、
当たり前のように受け入れられているのだ。
「人類の進む方向」
悲観的なところばかりが目立つけれど、
案外「人は他人に優しくなっている」のかもしれない。
いや、元々そうでそれが目立つようになったのかな。
「人類の未来に希望を持つ」
なかなか難しいことだけれども、
私の精神的な「軸」に加えたいと考えているテーゼだ。
まだまだ「覚悟」は足りないけれど、
そう思って生きる「覚悟」を持てたならば、
おそらくどれだけ裏切られたとしても、
「希望」を持ち続けることができるのだろう。
人間だって捨てたもんじゃないよ。
世界が荒れれば荒れるほど、
人は人に優しくなれるんじゃないかな。
人の優しさが目立つようになるんじゃないかな。
未来は希望で溢れている。
そう信じて生きたい。