平成30年度、文化庁の調査によると、
16歳以上の国民を対象として、
月に1冊以上の読書をする割合は約53%らしい。
この数字は、
16年前の平成14年では約62%と10%ほど高かったようだが、
平成20年以降の調査ではさほど変わらないようだ。
平成30年度、
月に3冊以上だと15.0%、
月に5冊以上だと6.4%
こちらは年々減少傾向にあるらしい。
私は昨年、1年間で数えると75冊、
一昨年は確か50数冊、
今年は現時点で34冊だから、
年間で50冊ほどのペースだ。
そう考えると大体、週に1冊、
月に4,5冊は読んでいることになる。
国民の上位10%ほどには入るのだろうか。
「読書家」を名乗っていいのか、
なんとも微妙なところではある。
私にとっての読書は「ライフワーク」だ。
「習慣」と言っていいだろう。
何も読んでいない時期があると落ち着かないけれど、
速読により冊数を稼ごうとは思わない。
じっくりと読みたい本があれば、
1か月をかけて1冊を読むし、
パラパラと1時間程度で読むものもある。
基本スタイルは併読だ。
常に複数を抱えていて、
その時の気分で読みたいものを読み進める。
今年は図書館を使う機会が減ったから、
基本的には購入している。
同じ本を複数回読み直すこともある。
年間で数えれば大体50冊あまり、
「気分」を大事にするフリースタイル、
ブログを書くために本を読むのではなく、
読んでいてブログに書きたい本があれば書く。
私にとっては、
ちょうどいい付き合い方をしているように思う。
中には、
「生きてきた日数よりも読んだ本の冊数が多い」
そんなある意味では「病気」のような友人がいるし、
そう公言する人にネット上でお目にかかることもある。
「読書」というものは、
著者の頭の中を疑似体験するようなものだ。
だから読めば読むほどに、
多くの人生を生きてしまうことになる。
どんどん人生が先に進んでしまって、
「真理」という名の「絶望」を突きつけられて、
その「圧」に耐えられずに命を絶つ。
『八本脚の蝶』を書いた二階堂奥歯さん、
前に記事にしたけれど、
彼女のブログを拝見すると、
「世界を知りすぎてしまった」
そんな印象を受ける。
幼少期から理不尽な「死」に囲まれて来たが、
その「死」を忘れてしまう自分、
それを許せないという罪悪感と闘うべく、
ニュースや新聞を頼りにして、
人の亡くなった場所に足を運んではただ「悼む」
ひたすらにそういう行為に身を委ねる主人公、
彼にとっては、
「生きる」ために「悼む」ことが必要なのだ。
それをしなければ生きてはいけない。
「呼吸」をするように「悼む」
もともと闊達で社交性に富んだ主人公、
何かを大きく損ねてしまうと、
何かにとにかく身を委ねるしかない時期がある。
「生きる」ために、
何かをし続けないと「生きてはいけない」のだ。
私にもそういう経験はある。
何を主張したいのかというと、
私は「読書をそういうものにしたくない」ってこと、
「生きるためにしなければならないこと」に、
「生きるためにせざるを得ないこと」に、
そういうものに読書をしたくはないってこと、
「生きている日数よりも読んだ本の冊数が多い」
そんな私の友人は、
数分でも暇さえあれば本を開いている。
試験などの目的があり、
一時的に時間を惜しんでそうしているのならば、
まだ理解はできる。
だけれども、
まるで「読書」していないと死んでしまうかのように、
何かに憑りつかれたように本を貪っている。
そうなってしまったら、
もはや「読書に生かされている」
そうなってしまうんじゃないかな。
そして、
かれこれ1年くらい音信不通になってしまった。
他の仲間からも連絡が取れないらしい。
読書なんて、
「おもしろかったな」だとか、
「タメになったな」だとか、
それくらいでいいのだ。
「読書」に限らないけれども、
「ゲーム」も「お酒」も「異性」も、
一時的な雨除けにするならば身を委ねるのもいい。
だけれども、
のめりこみすぎる前に、
「距離感」を考えないといけないんじゃないかな。
「生きがい」ってのはさ。
「一つだけあればいい」と言われるけれど、
「一つに絞っちゃいけない」のだ。
いくつもの「楽しみ」があって、
いくつもの「居場所」があって、
それぞれで自分や周りの人を大事にしてさ。
「織りなす」
そういうものなんじゃないかな。
縦の糸だけじゃダメで、
横の糸だけでもダメ、
中島みゆきさんが歌っているけれど、
「結婚」だけではなくて、
「人生」すべてがそういうものなんじゃないかな。
「読書」を一つの糸として、
私は「人生」を織りなして生きたい。