「偏桃体」
不安や恐怖をつかさどる脳の器官だ。
私はパニック障害を患ったものだから、
おそらくこの辺りに問題があるのだろう。
「無意識」がそうさせるのだろうか。
夜中に目覚めると後頭部がやけにざわつくことがある。
とりあえず起きてトイレに行く。
言いようのない不安に襲われて、
「ごめんなさい。許してください。許してください」ってなる。
何に対して謝っているのかもわからないけれど、
とにかくその時は救われることに必死なのだ。
パニック発作の類だろう。
今年は経験していないけれど、
去年は何度かそういうことがあった。
原因となる出来事があることもあれば、
ないこともある。
翌朝は決まって調子が悪い。
以前は「のび太」のように眠れた私、
何とも不便な体になってしまったものだ。
だけれども幸いなことに、
自分の体と対話する機会が増えた。
食べ物や運動に気を使って、
生活をコントロールして、
付き合い方を覚えたのだろう。
社会生活を含めてなんとかやって行けている。
年を取れば自然と、
手放さなければならないものは増える。
私の場合は少し早くそれを経験しているのかな。
もう体は戻らないのかもしれない。
それでも生きていくしかないのだ。
不便な体になってしまったけれど、
色々なものを手放して心は身軽になった。
目に見えないところにまで興味の幅は広がって、
知った気になっていた世界のことを、
もっと知りたいと思えるようになった。
そんなふうに変わったものだから、
ちょっとしたことで心は動くし、
涙もろくなった。
「偏桃体の暴走」
何も悪いことばかりではない。
「前の私」の1年分の感動を、
「今の私」は1ヶ月で感じているのかもしれない。
心を殺したままで生きるよりも、
心と向き合いながら生きる。
辛くて苦しいことばかりだけれども、
そのほうが命を正しく使っているんじゃないかな。
それも少しマンネリ化してきた。
それを喜ぶべきか悲しむべきか。
だから私はライフステージを進めたいのだろう。
そのことで悶々とする日々が続いている。
生活が変わって刺激が増えれば、
また「暴走」するかもしれない。
だけれども、
それでも「何も進まないこと」には耐えられないのだ。
先に進んだ時の景色を見て、
喜びや悲しみを目一杯楽しんで、
その上で最後の時を迎える。
それが私の「命の使い方」なのかな。