
どこかで目にして印象に残った言葉、
「女の中身は歳をとっても変わらない」
確かに未就学の姪を見ていて感じることがある。
この年でも「女の子」なんだなって、
自分の要求を通すために、
愛想を振りまくのだ。
「自分が可愛い」ということを理解していて、
それは遺伝子に組み込まれた本能なのだろうか。
それとも幼いながらに勝ち得た処世術なのだろうか。
「女」はいつまで経っても「女」
だけれども、
「男」もそれは変わらないのかな。
きっと社会の求める役割が人をそうさせるのだ。
社会の要請に適応するべく、
「男」は「男」を演じるうちに男らしくなり、
「女」もまた然り、
そのバランスが崩れた。
私の中で象徴的なのは2014年、
アニメ界ではこぞって「女性だけの世界」が描かれる。
この年は、
ディズニーから『アナと雪の女王』
どちらも王道のいわゆる「ボーイミーツガール」ではなく、
「ダブルヒロイン」を採用している。
特にディズニーはこれまでとは一線を画す作品を投入した。
ラストで雪の女王「エルサ」を救ったのは、
「王子様」ではなく妹の「アナ」だったのだ。
「世界に男は必要ない」
世界的な2つの配給元がそろいもそろって、
そういう作品を打ち出した。
それがとても印象的だった。
実際に私が見たのは劇場公開よりは少し後になるから、
実感としては翌年辺りだったのかもしれないけれども、
いずれにしても世界は「ジェンダーレス」に進んでいるのだ。
「ジェンダーレス」
その考え方が少しは浸透してきたけれど、
そのことで人は「役割」に戸惑うことにならないのかな。

持論は前述のとおり、
「社会要請がジェンダーを形作る」
そこに置こう。
もちろん「マイノリティ」は存在して、
適度な理解と配慮は必要だろう。
だけれどもある程度の「枠組み」
「男」はこうで「女」はこう。
そういう前提に従って社会は回ってきた。
そして多くはそれに従い「自分」を形作ってきた。
今はちょうど過渡期で、
それが混乱しているんじゃないかな。
「男らしさ、女らしさ」
「それを求めない」と喧伝していても、
一方でそれを強く求められている。
だから地盤が固まらず、
男も女もよくわからなくなっている。
婚活をしていると、
多くの女性は結婚後も働きたいという。
そして多くの男もそれを歓迎している。
そうなると「家のこと」はどうするのか、
役割分担に苦慮する。
自由度が上がって、
カスタマイズできるってことはさ。
裏を返せばそれだけコストがかかるってこと、
時間だったり、
精神的なリソースを割くことになるのだ。
「自由」は素晴らしいって風潮だけどさ。
そうとも限らないんじゃないのかな。
社会の一員として、
「居心地の良さ」を求めるのならば、
レールの上を走らないといけないのだ。
「ルール」と「自由」
多くの場合でそれはトレードオフ、
そのバランスを自ら選ぶ自由、
そういうものは広がったのかもしれないけれど、
何を選ぶのも自己責任なのだ。
だから「男らしさ、女らしさ」
それを強要される中にも「生きやすさ」はあるし、
「ジェンダーレス」の中にも「生きづらさ」はある。
男も女も、
それぞれが「被り物」をカスタマイズして、
処世術としてそれを使いこなしている。
取っ替え引っ替えするものだから、
時には間違えることもあるし、
「被り物」自体が破れて使い物にならなくなることもある。
年を取ったり、立場が変わったり、
そのたびに作り出す「被り物」は洗練されていき、
いかにも立派に見えるようになるけれど、
中身はそんなに変わらないんじゃないのかな。
今の「被り物」と50年前の「被り物」
並べて比較すれば違いは一目瞭然だろう。
だけれども、
その「被り物」の中身は変わらないのだ。
「人間の本質」なんてそうは変わらない。
結局、人は愚かで浅はかで自己愛に塗れていて、
それを「理性」で隠そうとしながらも尻尾は隠れていない。
そういう生き物なのだ。
だから「しれっ」とさ。
紳士、淑女でも気取っていればいい。
「おっぱい」のことばかり考えていたってさ。
「ボーイズラブ」のことばかり考えていたってさ。
「夜は床間で運動会」
毎晩それに夢中になっていたってさ。
「そんなことには興味のかけらもありませんよ」って顔してさ。
「しれっ」としていればいいのだ。
「人の本質」なんて、
大昔から今に至るまで、
そしてこれから先も大して変わらないのだろう。