人間だれしも、
そういう欲求を持っているのだろう。
尾崎豊『卒業』
「この支配からの卒業」
とても印象的なフレーズだ。
人は多くの場合、
生まれながらにして「庇護」にある。
その「庇護」を当たり前のように享受して、
「愛という名のおやつ」を与えられて、
与えられることを疑うことなく、
すくすくと育つ。
テレビで聞いたある実験の話、
このような非人道的な実験をすること自体が恐ろしいのだが、
たくさんの孤児に対して、
「栄養は申し分なく与えるけれど一切のコミュニケーションを取らない」
そうするとどうなるのか。
すると2年以内に例外なく死んでしまったらしい。
人は「コミュニケーション」
「自分への興味関心」というべきだろうか。
さらに言えば「愛情」といえるかもしれない。
それ無くして生きてはいけない生き物なのだ。
だけれども、
自我が肥大化して「庇護」の枠に収まらなくなると、
「支配からの卒業」を目指すようになる。
「反抗期」というものがこれにあたるのかもしれない。
そしてまずは一定の「自由」を勝ち取って、
独立を目指す。
致命的に失敗するまでは、
その「自由」をどんどん広げていき、
「手に入れること」で「自分になった気になる」
それが「子供」が「大人」になる。
そういう過程なのだろう。
だけれども、
どこかで求めているのだ。
「心の拠り所」となる何かを、
私も散々お世話になっているけれども、
「両親」だったり、
人によっては「社会」や「信仰」
今流行りの「サロン」なんかもある。
いわゆる「メンター」と言うやつだろうか。
人生を進めるにあたっての指針というべきか。
そういうものを求めているのだ。
どんなに「自分」を確立したところで、
人は一定「支配される」ことを望んでいる。
それって自然なこと、
それを拒むということは、
ある意味では自意識が壊れてしまっているのだ。
だから「アナキン・スカイウォーカー」は、
ダークサイドに落ちて、
「ダース・ベイダー」になってしまった。
一定の「自由」を獲得しながらも、
「支配されることを望む」
そんな自分を肯定してあげること、
それができてしまえば、
誰かに頼ることが苦ではなくなる。
そこから「できない自分」「弱い自分」
それを認めてあげる足掛かりになるんじゃないかな。
「自分であろう」とするあまり、
「自分を見失ってしまう」のだ。
「支配からの卒業」
それを目指す時期は必要かもしれないけれど、
それをできなくても何も問題はない。
「国家」や「社会」はもちろんのこと、
「倫理」や「道徳」なんてものも、
広義での「支配」にあたるかもしれない。
結局、
人は「自由」でありながら、
「支配されること」を望んでいるのだ。
生まれた時から「庇護」を受けていて、
それは死ぬまで変わらない。
まともな社会生活を送る限りは、
そこから抜け出すことはできないし、
人もそれを心のどこかで望んでいるのだ。
結局、我々の望む「自由」なんて、
自分に都合の良いものでしかない。