役割が人を形作る。
他者から要請されるものがなければ、
人はスポイルされてしまうのだ。
周りが何でもしてくれるものだから、
「幼稚的全能感」を捨てることができずに大人になって、
「できない自分」「ふがいない自分」
そういうものを受け入れることのできない子供の国の住人、
傷ついて、傷ついて、
傷だらけになって、
それでも生きていく覚悟を決めた時、
その時に余分なものを捨て去ることができるのだ。
なまじ小賢しいと、
大した努力もせずに色々なことができてしまう。
そうして思う。
「世界ってこんなものか」
その瞬間にその人の中での、
「世界」は広がりを持たなくなる。
「年」は取るけれど「時」は止まってしまうのだ。
だから「要請がある」って、
「何かを求めてもらえる」って、
とてもありがたいこと、
例えクズ人間からのアプローチも、
ある意味では糧になる。
「世界」を広げるための糧になるのだ。
「スポイルされていく」
ここ最近はそういう感覚が強くなっている。
このままだとダメになってしまいそうな感覚、
それを毎日のように感じている。
果たして私は「私の人生」を生きているのだろうか。
そんな疑問が積み重なっていく。
色んなものと折り合いをつけすぎて、
あまり踏み込まなくなってしまったな。
「人の熱意」に触れて感化される。
元来、負けず嫌いなところがあるから、
そういうことの多い人間だったけれど、
もはやそういうことはなくなった。
私の問題なのだろう。
心が動かなくなってしまったのは、
きっと私の問題なのだ。
心を動かさないように努めているうちに、
心は動かせなくなってしまう。
そのくせ、
降りかかる火の粉は容赦なく振り払う。
面倒に巻き込まれたくないからだ。
「安全第一」
その通りなんだけどさ。
もう一度、何か火を灯さないといけないのかな。
心に燃え上がるような何かを、
私の中に確かに存在したはずの、
ガツガツしたものが無くなってしまった。
もっとも自律神経のバカになってしまった体が、
無理することを許してはくれないのだけれども、
「今の私」と付き合いながら、
煮え切らない感情を飼いならして、
誤魔化しながら生きていくしかないのかな。
「手に入れたもの」は確かに多いけれど、
「失ったもの」の大きさを実感する。
もう一度10代、20代のバイタリティを手に入れられたら、
きっとその頃よりもうまくやれる自信はある。
だけれども、
それは今だから思うことであって、
当時の私にはそうすることができなかったのだ。
「スポイルされていく」
ある意味ではそれを受け入れていくことが、
年を取るってことなのかな。
明石家さんまさんのような貪欲さを、
30代の「今の私」は持ち合わせていないのだ。
私は少し、
色々なものを手放すのが早かったのかも知れない。
「手に入れる」
もう少しそちらに寄せて、
モードを切り替えてみるとしよう。
人は自分次第では、最後の瞬間まで、
何かを手に入れて生きていくことができるのだ。
それを最後の一瞬で、
パッと手放す最後、
そんな花火みたいな人生も、
風情があるのかも知れないな。