スポイルされていく

f:id:tureture30:20200926073246j:image

 

役割が人を形作る。


他者から要請されるものがなければ、

人はスポイルされてしまうのだ。


周りが何でもしてくれるものだから、

「幼稚的全能感」を捨てることができずに大人になって、

「できない自分」「ふがいない自分」

そういうものを受け入れることのできない子供の国の住人、


傷ついて、傷ついて、

傷だらけになって、

それでも生きていく覚悟を決めた時、

その時に余分なものを捨て去ることができるのだ。

 

なまじ小賢しいと、

大した努力もせずに色々なことができてしまう。


そうして思う。

「世界ってこんなものか」


その瞬間にその人の中での、

「世界」は広がりを持たなくなる。

「年」は取るけれど「時」は止まってしまうのだ。


だから「要請がある」って、

「何かを求めてもらえる」って、

とてもありがたいこと、

 

例えクズ人間からのアプローチも、

ある意味では糧になる。

「世界」を広げるための糧になるのだ。


「スポイルされていく」


ここ最近はそういう感覚が強くなっている。


このままだとダメになってしまいそうな感覚、

それを毎日のように感じている。


果たして私は「私の人生」を生きているのだろうか。

そんな疑問が積み重なっていく。


色んなものと折り合いをつけすぎて、

あまり踏み込まなくなってしまったな。


「人の熱意」に触れて感化される。


元来、負けず嫌いなところがあるから、

そういうことの多い人間だったけれど、

もはやそういうことはなくなった。


私の問題なのだろう。

心が動かなくなってしまったのは、

きっと私の問題なのだ。


心を動かさないように努めているうちに、

心は動かせなくなってしまう。


そのくせ、

降りかかる火の粉は容赦なく振り払う。

面倒に巻き込まれたくないからだ。


「安全第一」


その通りなんだけどさ。

もう一度、何か火を灯さないといけないのかな。

心に燃え上がるような何かを、


私の中に確かに存在したはずの、

ガツガツしたものが無くなってしまった。


もっとも自律神経のバカになってしまった体が、

無理することを許してはくれないのだけれども、


「今の私」と付き合いながら、

煮え切らない感情を飼いならして、

誤魔化しながら生きていくしかないのかな。


「手に入れたもの」は確かに多いけれど、

「失ったもの」の大きさを実感する。


もう一度10代、20代のバイタリティを手に入れられたら、

きっとその頃よりもうまくやれる自信はある。


だけれども、

それは今だから思うことであって、

当時の私にはそうすることができなかったのだ。


「スポイルされていく」


ある意味ではそれを受け入れていくことが、

年を取るってことなのかな。


明石家さんまさんのような貪欲さを、

30代の「今の私」は持ち合わせていないのだ。

 

私は少し、

色々なものを手放すのが早かったのかも知れない。

 

「手に入れる」

 

もう少しそちらに寄せて、

モードを切り替えてみるとしよう。

 

人は自分次第では、最後の瞬間まで、

何かを手に入れて生きていくことができるのだ。

 

それを最後の一瞬で、

パッと手放す最後、

 

そんな花火みたいな人生も、

風情があるのかも知れないな。