「時間」というものは、
人間が勝手に作った尺度であって、
「事物」同士の関係性の変化に過ぎない。
人間も含めて物体は経年劣化する。
だから「劣化」は「時」の象徴なのだ。
「時は流れている」
そして、
「時は元には戻らない」
いくら「ぺこぱ」が「時を戻そう」としたところで、
時は戻らないのだ。
人は「時」とは不可逆なもの、
そう感じて生きている。
だけれども「劣化」の速度なんてものは、
個体によって大きな差があるのだ。
それと同時に「積み重なるもの」
それの多さも個体差がある。
そう考えると、
「年齢」なんてものは大したものではない。
特に日本人は「平均」と「ランキング」が大好きだから、
相手を知るための尺度として「年齢」を好んで使う。
だけれども、
「山P」と「ミルクボーイ」は同じ年で、
かたや未成年と合意の上でにゃんにゃんしているかと思えば、
かたや私のように一度も経験がなかったりもする。
(ミルクボーイは既婚だ)
経年による変化は人によって全く違うもの、
それを基準に相手を判断すること自体がおかしいのかな。
色々な統計情報を形にして、
リスクを定量化することで不安を煽る。
だから世論はそれに流されて、
「数字」に価値が生まれる。
「1円」でも足りなければ欲しいものが買えない。
そういう経済の世界ならばともかくさ。
年齢がいくつまでだとか、
年収がいくら以上だとか、
身長がいくつだとかさ。
体重やら胸の大きさ、足のサイズまで、
さすがにそれは公表しないけれども、
「人間の価値を測るための数字」
そんなものばかりが取りざたされて、
生身に触れる前から「条件」で選んで選ばれる。
確かに合理的なんだけどさ。
「数字で人を判断しない」
それって人として大事なことなんじゃないかな。
ピッチャーの投げる球だってそうだ。
同じ150kmだとしても、
バッターボックスに入ると、
投げる人によって全然違うらしい。
「尺度」なんてものは、
利便性を高めるために人間の生み出した知恵だ。
「時間」も例外ではない。
人は疑いを持つことなく、
「時」の持つ魔力に魅了されて生きているけれども、
それが本当に存在するのかは、
まだ人類には証明できていない。
存在するとしたって、
それがどのような形をしているのかは、
誰にもわからないのだ。
だから手放せばいい。
「われ思うゆえにわれあり」じゃないけれども、
「心」以外はすべて偽物なのかもしれないのだから、
手放せばいい。
目の前にいる人が、
いや、画面越しだったとしても、
今やりとりをして、
心を通わせようと試みている人が、
「数字の世界」とは関係のない、
自分と同じように弱くて脆い「心」を持った、
生身の人間だということ、
そのことだけは忘れずにいたい。
「時を戻そう」
遠い未来には可能になるのかわからないけれど、
今のところは一度傷ついた心を、
完全に元に戻すことはできないのだから、